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2023年11月現在、言論統制の法的対象にならないようにすべく、以前公表した文章の書き直しを行なっている。しかし外山滋比古著『「読み」の整理学』(2007,筑摩書房)或いは前身である外山滋比古著『読書の方法 未知を読む』(1981,講談社) という書籍は、かつて私が所有していたものだがどこに行ったかわからず、探す気もあまり無い。なので、以下自分が以前書いた文章のみを頼りにして書き直しを行なう。ご寛恕願いたい。
外山滋比古『「読み」の整理学』では、「わかる」という多義的な語を多義的なままに用いているため、読者のほうに概念混乱を起こしやすい、と思う。「わかる」という語は「知る」の要素と「理解する」の要素をもつ。このことに意識的になると、外山のこの著作が読めなくなる。
たとえばp3-4の本書冒頭の次の箇所にもそのような混乱を招く箇所が早速みられる。賢明な読者ならこの時点で気づき、混乱するか、さもなくば読むのを止めるかするだろう。
その後外国語だけではなく、一般の読みについて、二通りの読み方があることに気付いた。内容がわかっている文章を読むのがそのひとつ。もうひとつは、書かれている内容がよくわからない文章の読みである。同じ読みといっても、両者はまったく別のものであると言ってよいほど異っていると考える。いくら、前者、つまり既知の読み方ができても、後者の未知の読み方はそれにつれてうまくいくとは限らない、どころか、まったく読めていない。そういういわば発見である。
内容がわかっている
という表現の曖昧さに起因して、この箇所では「理解/非理解」の二分法と「既知/未知」の二分法とを両方とも述べたことになっている。
「既知/未知」の二分法は「経験済み/未経験」という二分法を帰結しうる。それだけなら問題無いのだが、しかし外山はさらに「経験可能/経験不可能」という二分法をもダブらせてしまい、結局「経験済み/経験不可能」という理解困難な二分法を実際には用いることとなる。
このようにして、「わかる/わからない」という二分法は、「理解/非理解(誤解又は無理解)」となったり、「既知/未知」さらには「経験済み/経験不可能」となったり、恣意的に使うことができるものになってしまう。
さらに「経験済み/経験不可能」という二分法は、「具体/抽象」と重ねることができる。つまり、「経験済み(つまり具体)/経験不可能(つまり抽象)」というふうにまで、「わかる/わからない」をそこまで拡張することができるようになる。かくして「いかにして読者が抽象的な文章を読めるようになるのか」を解明・解説する際に、「具体→抽象」という二分法と、「わかる→わからない」とを重ね合わせることで説明してしまうことが可能となる。その際に、「理解/非理解」とも「既知/未知」「経験済み/経験不可能」とも必要に応じて重ね合わせることができてしまう。このようにいろいろなキーワード群が登場するため広範囲の内容を扱えるように思えるが、それは「わかる/わからない」の二分法の多義性に起因するものであり、実際には内実は空虚であるように私は思う。
外山のこの著作は「難しい文章が読めるようになるにはどうしたら良いか」という問題意識を追求した本であるとは私は言いたくない。しかし読者のほうでそのヒントを期待して読むことが多いという書籍ではあろう。そのために必要な考察はいろいろ在るが、まずもって「難しい文とは何か。あるいは正反対に、易しい文とは何か。」という話題を考えておく必要が在る。そして、この話題に関して、ほぼ何もヒントも与えていない著作だと思う。以下その点について少し述べる。
難しいというのはもちろん理解するのが難しいということである。なので文の難易度という話題は、もちろん「文の使用を理解すること」の難易度ということになる。ところで、「理解するのが難しい」というのは、内容が難しいからとはちっとも限らない。まずこの当たり前のことを押さえておく。
その点を理解するためには、理解することが難しい文言の一つに、複数の解釈が可能でありどれだか決定できないというものが存在する、ということを再認識する必要が在る。たとえば、文レベルの決定不能性であればいろいろ考案することが比較的容易にできる。特に、文法的に必須の成分が欠けていても構わないのならばそのような文はとりわけ容易に作ることができ、時には意図的に使われる。たとえば「欲しい物が欲しいわ。」とか「私はかわいいから卒業する。」などの、広告に使用される文がそうだ。これらの文には複数の解釈が在りえ、一つの意味に固定しきれない。これらは異化効果を狙った計算づくのものであるが、無自覚的にこのような表現を次々と繰り出してくるケースというものもまた存在する。ともあれ、これがもし、語の場合であれば、いわゆる多義語もそうだが、多義的に使われやすい語、意味を固定させるのに不可欠の要素を欠落させたまま使われている語、などが「理解することが難しい文言」に該当する一つのタイプである、と言える。
たとえば「○○は必然的である」とだけ書いて、何についての必然性なのかを一切書かないというような無愛想な書き方をすると、やはり文意が決定不能になる場合が在る。しかもそれでいて著者は説明した気でいることまでも起こりうる。この点を、例示の重畳になってしまい恐縮ではあるが、たとえば「関係」という語について、そのようなことが起こりうるという一例を示す。
「新宿駅と南新宿駅との関係」と「品川駅と北品川駅との関係」は似ているか、似ていないか?この問いに対してはどちらの回答も可能である。路線的な関係なら似ている(「起点駅」と「次の駅」という関係)。地理的な方角関係ならまあまあ似ている。大まかには南北の関係に在ると言いうる(google検索:新宿駅 南新宿駅、google検索:品川駅 北品川駅)。しかし駅名の名称どうしの関係ならば正反対の関係である。このようなときに、或る特定の関係のみが念頭に在って、他の可能性を考慮していない人だと「“新宿駅と南新宿駅との関係”“品川駅と北品川駅との関係”は似ているか、似ていないか?」とだけ表現してすべて言ったような気になっているし、自分の想定した方向で理解しない相手を馬鹿だと見なすようにもなる。「説明不足」から来る難しい語というのは、こういうところにもその原因が在るのだ。
多義性と関係在る要因としては、比喩的な転用も理解することの困難になりうるものとして挙げることができる。特に、比喩を用いているため理解しやすいだろうと発信者自身が思い込んでおり、そのため語の説明に不可欠な要素を欠落させて使うと、そのようなことになる。なお、ここでの比喩的な転用に含まれるものとしては、「時計の針」や「パンの耳」のような他に表わす語が無いので使われている「やむを得ない」比喩も含めて、少し広めに想定している。さてたとえば「ことばとそれがあらわすものごととの間に成立する関係」という言い回しに使われている「間」の語が、その比喩的な転用である。この「間」という語は、「新宿駅と南新宿駅との間に在る距離」というときの「間」とは異なっているからだ。このような表現は単に説明不足を帰結しうるだけでなく、比喩的表現による誤解も生みやすい。たとえば「新宿駅と南新宿駅との間に在る距離」と「南新宿駅と新宿駅との間に在る距離」は同じになるはずだろう。しかしだからと言って「ことばとそれがあらわすものごととの間に成立する関係」と「ことばがあらわすものごととことばとの間に成立する関係」とが同じであるとは限らない。
もし「間」に成立する関係が同じではないという用法に従った場合には、たとえば「イヌという単語は、犬の個体たちを指示するのに使われたり、哺乳類の下位概念の一つを指示するのに使われたり、スパイを指示するのに使われたりする」という「関係」と、「哺乳類の犬を指示可能な単語には『いぬ』『dog』『hund』…が在る」という「関係」とを区別することも不可能ではない。他方、もし「間」に成立する関係が同じであるという用法に従った場合には、そのいずれか片方のみを指していてそのことを明記していないケースが在りうることになる。そのどちらなのかをこの表現だけから決定することは困難である。これが、比喩的な転用が産み出しうる誤解、特にその比喩の使用者自身に起こりうる誤解の、単なる一例である。なお、今しがた用いた「比喩的な転用が産み出しうる誤解」の「産み出」すも、比喩的である。「転用」ですら比喩“的”だと見なすことも不可能ではない。この点については後述する(←“点”も比喩的である)。
「ことばについてのことば」にも、習得の困難が予想されるものが少なくない。というのも、「ことばがあらわすものごと」の中に「ことば」や「ことばを用いた行為」などを含めた上で、言語教育・国語科教育を考えるということがおよそ満足になされていなかった、という事情が在るからだ。外山もまた、ことばがあらわすものごとの中に、こういったものを特に含めて考慮している形跡は特に無かったと思う。それに外山のこの書は、そもそも「コミュニケーション」について、階級問題の箇所を除いてはほとんど書いていないのである。なので、「ことばについてのことば」というタイプの文言の理解はこの書から学べない内容の代表である。
たとえば「挨拶」という語も、「ことばについてのことば」の一つである。これを幼児が習得することが困難であることは、わりと容易に想像がつくと思う。「何をすれば挨拶になるか」までは多少習得できたとしても、「何をしたら挨拶にはならないか」までは習得することはまず難しい。或いは「誇張」という語も、「ことばについてのことば」である。ところで「挨拶」もそうだが、「誇張」もまた評価語である。「挨拶」とはまずは望ましい事柄であるうちの、或る種の言語現象であり、「誇張」とはまずは望ましくない事柄であるうちの、或る種の言語現象である。なのでとりわけ「誇張」という語に関しては「外延」が人により立場により相当異なることが予想できる。或る人が「これは誇張だ」と主張する事柄が別の人は「いや誇張ではない」と主張することが起こりうる。このとき、実際には事実認識に関する対立から生じたものをも価値の対立のようにして争う者が少なくないので、決着は大概つかない。そんなこんなで、こういった語は習得もそうだが、また、自分が適切に使用するのも難しい語になりやすい。先の「挨拶」と同様、「どういうときにどういうふうに使って良い」のほうは習得できても、「どういうときにどういうふうに使うと良くない」のほうの習得のほうは、きりが無いからでもある。
ところで、ことばと呼ぶか言語と呼ぶかは立場により異なるだろうが、とにかくその「ことば(又は言語)」というのは、文字化することも音声化することもでき、そのことでことば(又は言語)それ自体を物体的な対象のようにして扱うこと・見なすことが可能になる。言わば「ことばごっこ」「言語ごっこ」である。先に一瞥したような比喩的な転用と、この「ことば・言語を物体化してことばごっこ・言語ごっこ」を行なうことから、数多くの「難しい語彙」や「難しい表現」が産出可能である。たとえば「新宿駅と南新宿駅との間」という表現と同形と見なすことによって、「ことばとそれがあらわすものごととの間」という表現を作り出すことができる。これはわりと容易に受け入れられる表現だ。というのも「ことば」と「それがあらわすものごと」というふうに文字にして紙の上に描くことができるし、そうすると「新宿駅と南新宿駅との間」と同程度の難易度であるような気分になることもできるからだ。同様にして「ことばを使う」という表現も「鉛筆を使う」という表現と同形と見なして受け入れることが可能になるし、「長い文章」という表現も「長い鉛筆」とか「長い時間」と同形と見なして受け入れることが可能になる。「表現を産み出す」とか「比喩的に転用する」という表現ですら見方によってはそうだと言いうる。「発言を取り消す」ということで言わんとすることも、紙の上に書いた文字列を消しゴムで消す視覚的イメージや、抹消記号を上から重ねて描いたりする視覚的イメージと結びつけて、理解しやすくなる。
専門用語や領域固有性の高い用語、それらと同程度に使用されうる固有名に関しても、外山は何か述べていたと思うが、役に立つ内容であったという記憶は特に無い。外山はとにかく新聞の社説というものの重要性を説くことに熱心であり、それくらいは読めて当たり前だという態度であった。しかし、もしこの態度が「高等学校での教育を受けていればその成果によって読めるようになるはずの内容である」ということを意味するのならば、初版発行の1981年から2017年現在までの期間は、そういう期間ではなかった。新聞の社説をもし読めるようになりたいのなら、政治経済や世界地理・現代史に関するかなりの知識が必要であり、高等学校までの学校教育は特にその提供のために行なわれているわけでは全くない。假に学校の教育内容が社説を理解するために役立つ場面が在ったとしても、それは偶然に過ぎない。この話題は私にはちと荷が重い気がするが、いちおう二点だけ補完的に述べておく。
一つはこのサイトのあちこちで述べているように、「専門用語とふつうの語彙とが同じ形をしているのに、違う用法である」というケースが存外多いということである。ただ、もし政治経済の場面で考えるなら、主にそれは「政治の用語と政治学の用語との用法の違い」、「経済の用語と経済学の用語との用法の違い」…ということになり、外山の立場からすれば、最初から一般大衆の生活世界の外部に存在する問題ではある。そして、社説はこの場合には「ふつうの語彙」のほうにむしろ該当することになる。なのでこの認識が役立つのは、政治学や経済学のテキストを勉強することで結果的に社説が読めるようになった人たちのようなコースの場合だけかもしれない。とは言え、そのコース自体は割合標準的なものではある。つまり、大学の政治や経済の関係学部を卒業して、そのことによって結果的に新聞が読めるようになった人は少なくないはずである。なので私の提言も一定程度役立つはずだ。
もう一つは、専門用語や領域固有性の高い用語に見られる「理論性」である。たとえば、ジャンケンの「パー」だけ知っていて「グー」を知らないということがもし在れば、それはジャンケンの理解に著しく支障をきたすはずだ。「パー」「チョキ」「グー」はまとめて全部知っていて、またその相互関係も知っていて、初めてジャンケンの一部を理解していると言いうるからだ。将棋の駒の進め方のルールでも同じことで、「特定の駒だと知らない」というのでは、将棋についてほとんど何も知らないことになる。このように、「用語どうしの関係やつながりをまとめて一挙に全部理解する」ようにして学ばないといけない局面というのが、多々在る。日常的な語でも多少はそうだが、専門用語や領域固有性の高い用語だとなおさらである。なので、「首相と大統領とはどう違うか」とか「共和制と立憲君主制とはどう違うか」とか「資本主義と社会主義とはどう違うか」といったような事柄は、一つひとつをばらばらに学ぶとか、新聞の社説を読む経験を積む中で徐々に獲得していくものではなく、最初から教科書的な書籍などで一挙にまず学習してしまうタイプの語認識であると言える。もちろん「理論性」ということで想定できる内容はこれだけではないだろうが、しかしこれもまた専門用語等の習得や理解のうえで重要なポイントの一つではある。これらは、外山のこの本からはまず学ぶことができない内容である。
では、その反対に易しい文・語とはどのようなものか、となるとなかなかこれは難しい問いである。多義的・比喩的に使用したりすることができにくい、一語につき一定義のみ対応させれば済むような単語であり、なおかつ直接観察可能な物体・生命体の状態や運動・変化などを指示する語や、誤読してもあまり支障が無いような・心情描写・風景描写などに使われる語、といったあたりになるのではないかと推察する。その一方で、価値的な評価を行なう文・語は、送り手と受け手の側で食い違いが在っても気づきにくいところが在るし、総論や一般論を述べるのに適した語は、日本語の場合冠詞がつかないので、量化表現などの論理性が曖昧になりやすい。そういった点を考えると、使う側にとっては易しい文・語であっても、受け手に正確に伝わるかを考えると少々それは疑わしい。なので、外山とはこの点ではかなり意見が異なることになるが、文学作品に登場するような「描写」に使われやすい文・語というのが、比較的易しい語の候補として挙げることができる、と私は考える。反対に、全称命題を気安く述べることのできるようなときに登場しがちであるような、総論用・一般論用の語やそれを用いた文は、送り手が思っているほどには易しい文・語ではないかもしれない。
ただし、当然のことながら、漢字の習得には段階が在り、その公教育上の順番や指定された読み方も定まっているので、そこから著しく逸脱するような「難しい漢字」を使わないと表記できないような語や「指定されていない読み方」をする語だと、いくら他の条件を満たしていてもダメである。また、同音異義語が多くその使用頻度も似たり寄ったりの語が多い語だと、それだけでもいくぶん難しい、というか、使用上間違えやすい語になりやすい。
外山はこの書で「既知」「未知」というキーワードを頻繁に使用している。しかしその頻度のわりには、これらについて理解が深まる書であるとはとうてい言えない。そのことが端的に次の箇所に表われている。p52。
(前略)単純明快。知識が多くなればなるほど、ひとのことばがよくわかるようになる。知識がすくなければすくないほど、読んだり聴いたりすることは難しい。
この箇所は端的に誤りだと思う。量化子などが特に書かれていないが、上の引用箇所は全称命題と主張したものだと解釈して問題無いはずだと思う。なので、反例を一つ挙げればそれで反証は充分であるはずの箇所であると受け取りたい。特に、外山はこの原則を知らないのであえて強調しておく。ただし「知識」という語は特殊な含意を持ちやすい語であり総論の主張には不向きなので、引用箇所の「知識」は「知っていること」くらいに置き換えさせてもらう。また、引用箇所の「わかる」は「理解する」の意味だと受け取ることにする。
上の引用での主張が誤りであると言いうる理由は、いくら「知っている事」が多くても、「相手が何を知っているか」や「相手が何を意図しているか」を知らなければ、相手の言っていることがよく理解できるようになるとは限らないし、反対に「知っている事」がそれほど多くなくても、「相手が何を知っているか」を或る程度知っており「相手が何を意図しているか」がかなり見当がつくようなら、相手の言っていることがよく理解できる場合が多いからだ。それと同じことは次の箇所にもあてはまる。p69。
既知を読むには、文字さえわかればよい。ときには、その文字ですら明確にとらえられていなくても、文章の見当をつけることはできる。
それに引きかえ、未知を読むには、二重の壁がある。
既知の内容であれば読んで理解することは容易であると外山は思っている。しかしそれが容易であるのは、その文章が既知の内容であることをあらかじめ知っている場合である。その文章が既知の内容か未知の内容かを知らないうちだと、假にその文章が知っている文字、知っている単語、知っており理解も容易であるような内容であったとしても、それを読んで理解できるとは限らない。とは言え、われわれは超能力者ではない。なので、与えられた文章や音声が「既知であるか未知であるか」をあらかじめ知ることは、大概できない。或る程度「見当をつける」ことになる。なので、その「見当をつける」ことが可能な程度の情報を、相手の文章や音声から感知できるかどうかである。それができにくい対象である場合、文字・語・内容がすべて既知であり理解可能であったとしても、なお、理解することが容易にならない可能性は残るのだ。
この点に関連した誤誘導的な箇所がある。それは「ウソ」という語の用法に関する外山による理解についてである。こういうことだ。私たちの「嘘」という語には大別して二つの用法が在る。「相手を騙す」ということを中核とした「嘘」と、「事実と異なることば・言語であると知っていてそれを述べる」ということを中核とした「嘘」である。この二つの用法のどちらがより基幹的であり、どちらがより派生的であるか、或いはそもそも基幹的/派生的という関係には無いのか、は見た目よりはだいぶ難しい問題である。
というのはこうである。「事実と異なることを意図的に述べて相手を騙す」言語行為を「嘘」と呼ぶことには、あまり異論が無いと思う。問題はまず「事実と異なることを意図的に述べる」がしかし「相手を騙す」というわけではない、という言語行為を「嘘」と呼ぶかどうかである。たとえば小説を書くことや、まじめなコマーシャルやドラマで演技をするときなどがそうだ。これらを「嘘」と呼ぶ者もいる。外山も「広義の嘘」と呼ぶ。しかし、私の印象だとこちらを「嘘」と呼ぶ人は、分類や分析をなりわいとする人になんだか多いという状況が在り、一般に普及した呼び方ではあまりないように思えるのだ。また、「騙す」ことを「嘘」と呼ぶときのような価値評価を下すようなところが全く見られない。これは非常に重要な論点だ。その一方で、「事実どおりのことを意図的に言って相手を騙す」という行為も在りうる。たとえば普段から嘘つきである人物があえて事実どおりの事を言って相手を騙そうとする場合などである。この場合も普通は「嘘」とは呼ばないだろう。「演技」とか「フェイント」とか「欺瞞」とか別の語彙を使って非難される場合が多いはずだ。そういうわけで、「相手を騙す」言語行為であることと、「事実と異なることを意図的に言う」こととでは、どちらが基幹的でどちらが派生的ということは決めにくく、したがってどちらが狭義の用法でありどちらが広義の用法である、ということは決めにくい、と思うのである。これが外山の主張がもつ誤誘導的な点である。なお、この点に関連した立論を「ことばの意味」はどう教育されているかでも少々行なっている。こちらで批判している論も外山の影響を受けているふしが在るので、併せて見ておくと良いかもしれない。
なお、単に「事実と異なることや事実の裏づけの無いことを述べる」だけなら、「嘘」と呼ばれる筋合いは無い。単なる「誤り」だったり単なる「おしゃべり」だったりするだけである。幼児の言語について語るときにも、「意図的に事実と異なる」ことを述べているのか、それとも「意図的とは言えない」のか、の違いは重要である。またそれとは少し異なるが、「事実と異なる」と「事実に反する」と「事実の裏付けが無い」などとは少しずつ異なっており、私は「嘘」と呼ばれ得ることを指すのには「事実と異なる」が良いと思えた。「事実の裏づけが無い」言語行為とはたとえば、引用者による次の強調箇所などがそうである。p21。
マニュアルは商品についているいわば売りものである。わけのわからぬものを作って客に読ませるわけがない。書き方は上手でないかもしれないが、ワープロを動かすことのできる情報は伝えているはずで、そうでなければ、メーカーの内部でもチェックされるに違いない。実際、大多数の使用者は、そのマニュアルで何とか操作を覚えて使っている。(後略)
読者の中にはこの箇所を読んで、「外山先生は何と博識なんだろう。大多数の使用者がワープロをマニュアルで何とか操作している、などという事実まで知っているのだから」と感心した者もいたかも知れない。しかし私はそうは思わなかった。「事実の裏付けの無い」ことをまるで事実を述べるときのように書いたに過ぎない、と思った。というのは、マニュアルがわかりにくければ、そのマニュアルよりも数倍分かりやすいということを売りにした「ガイドブック」が書店や電化品店に並び、ユーザの多くはどうせそちらを購入しそちらを頼りに使うだろうと思ったからだ。たとえば私もパソコンのときはそうした。またこれがもし裏付けの在る事実なら外山はその裏付けを絶対書くと思った。だから、書いていないということは事実の裏付けは無いのだろうし、この書籍のなかにその種の裏付けの無さそうな主張は他にも溢れているから、きっとそうに違いない、と思った。いずれにせよ、このように「事実の裏付けを明示しないで」述べることを「嘘を言う」とは通常、呼ばないように私には思える。ただし、ここで今一つ重要なことは、「外山先生は、大多数の使用者がワープロをマニュアルで何とか操作している、ということを知っている」とも主張できないことである。「知っている」ということが言えるためには、その内容は事実でなければならない。しかるにこの本書の書き方であると、それが事実である保証は限りなくゼロに近いように思えた。事実(や真理)ではないことは「知る」ことはできない、これが「知る」という語の使用規則のかなり重要な今一つの事実である、と言って良いだろう。この本から学ぶことのできない事柄の一つである。
そういうわけでだいぶ迂回してしまったが、「嘘」という現象について誤誘導するような主張を外山が書いていることは、「与えられた文の内容・文意が既知であるかどうかが、そもそも既知であるか未知であるか」という水準を全然考慮していないことと大いに関係が在るように、私には思えたわけだ。言うまでもないが、相手の書いている文字・語・内容をすべて知っていたとしても、相手が嘘を言っているか、事実の裏付けの全然無いことをただ放言しているだけなのか、が判定できなければ、相手の言っていることについて、言っている文自体はかなり理解できたとしても、かなり重要な点についてなお未知のままである。言語理解というものは、「知っている事柄が多ければ多いほど、相手の言っていることが理解できる」などというほど単純なものではないのだ。
外山は影響力のとても強い著者であり、その影響が国語科教育にもありありと残っている。その影響は消し去るべきものであると私は思う。