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義務教育における漢字教育は、漢字の専門家の意見を無視して行なわれていることが往々にして、在る。特に教育が「○○するべきである」という形をとるときに、エキセントリックなさまを見せる。そのような場合に、専門家の知見を援用して「○○するべきである、なんてことはない」「○○しなくても良い」というふうに規範を緩和するのなら良い。だが、注意されたい。もし専門家の知見を無批判に援用して「○○するべきである」→「○○するべきである、なんてことはない」→「むしろ××するべきである」というふうに、別の種類のべき論に陥る危険も在る。一般に日本の初中等教育現場での「べき論」は、必ず暴走し制御不能な抑圧を生徒に与えることになる。なので、何であれ「べき論」に結びつきやすい発想は事前に想定しておく必要が在る。そのことを以下述べておきたい。
そのために、中国文学の著名な専門家の著書を二冊用いてみる。高島俊男『漢字と日本人』(2001,文藝春秋社)(amazon)と阿辻哲次『漢字を楽しむ』(2008,講談社)(amazon)である。
まず、訓読みの同じ読みでの漢字の使い分けに関してである。高島氏の高島俊男『漢字と日本人』のp86-87から引用する。
よくわたしにこういう質問の手紙をよこす人がある。―「とる」という語には、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などがあるが、どうつかいわければよいか、教えてください。あるいは、「はかる」には、「計る」「図る」「量る」「測る」などがあるが、どうつかいわけるのか教えてください。
わたしはこういう手紙を受けとるたびに、強い不快感をおぼえる。こういう手紙をよこす人に嫌悪を感じる。こういう手紙をよこす人は、かならずおろかな人である。おそらく世のなかには、おなじ「とる」でも漢字によって意味がちがうのだから正しくつかいわけねばならない、などと言って、こういう無知な、おろかな人たちをおどかす人間がいるのだろう。そういう連中こそ、憎むべき、有害な人間である。こういう連中は、たとえばわたしのような知識のある者に対しては、そういうことを言わない。「滋養分をとる」はダメ、「摂る」と書きなさい、などとアホなことを言ってくるやつはいない。ほんとに自分の言っていることに自信があるのなら知識のある者に対してでも言えばよさそうなものだが、言わない。もっぱら自分より知識のない、智慧のあさい者をつかまえておどす。
「とる」というのは日本語(和語)である。その意味は一つである。日本人が日本語で話をする際に「とる」と言う語は、書く際にもすべて「とる」と書けばよいのである。漢字でかきわけるなどは不要であり、ナンセンスである。「はかる」もおなじ。その他の語ももちろんおなじ。
高島氏の上記のような主張に賛成する者も少なくないだろう。たとえば、義務教育の漢字テストで「はかる」の漢字の使い分けといった事項に悩まされた者ならば、賛成するかもしれない。或いは、漢字検定のとりわけ一級に見られる「当て字」のようにしか思えない出題に違和感を感じた者なら、上記の主張に賛成することが多いだろう。実は、私自身も或る程度は同感なのである。すなわち「漢字で書く必要の無い場合だって在るし、その場合はかな書きだって良いはずだ」というふうになら賛成なのだ。だがとは言え、上記の主張はもう少し慎重に検討されるべきものである。この話題に関して二つの両極端の立論が在りうる。
一つは字源の専門家の知見を尊重して「由来」を最重要視する立論が在りうる。その場合「“とる”は和語でありその意味は一つであり、漢字で表記してはならない。かならずかな書きするべきである」という主張の形をとる。専門家は「漢字で表記することは不要である。」と述べたのが、それが教育現場ではいつの間にか「漢字で表記したら誤答である」と変質してしまうわけだ。もともと一般に「要らない」という発話は「だから、するな!」の含意であることのほうが多いわけだから、変質ではなく当然の帰結であるかもしれない。この場合「漢字のもともとの由来や字源の知識」のある人間が権威をもち、その人間の知見によって学校現場での「正解と誤答」が決定されることになる。現在とは異なる状態だが、このようになる可能性だって考慮する必要は在るだろう。
もう一つは、言語学風の考え方として「現況」を最重要視する立論も在りうる。実は私は当初こちらの立場であったし、穏健な立論であればこちらの方が良いと今でも思う。すなわち、「由来がどうあれ、漢字で書かないと区別がつきにくくなる場合というのは優先的に漢字で書く方が良い」というものになる。ともあれ以下述べてみる。たとえば「あつい鉄板」という表記は許容されるだろうか。この表記だと「厚い鉄板」なのか「熱い鉄板」なのか区別がつかないではないか、という主張が在りうるだろう。ここで、「厚い」と「熱い」がどちらも「あつい」という和語であり、意味は一つである、と言えるかどうかが問題になる。それを判定できるのは専門家とその知見を学習した者とだけであろう。だが、そこで由来とは別に、現在の日本語の社会ではこの二つはもう別の意味であり、この二つは同じ語ではない、と見なすことも可能である。由来はどうあれ、現在は違う、という考えである。結果的にこの考えは、現在の学校教育が採用している論と偶然にも整合している。この場合、極端に走れば「だからこの二つは必ず書き分けなければならない。かな書きなどしてはいけない。」となる。そうすると、否応なしに「厚い」と「熱い」の相違だけでなく、「熱い」と「暑い」の相違にも気をつけないといけなくなる。「暑い鉄板」だと意味不明になることが殆どだからだ。かくして、現在の典型的な漢字テストのような細かい書き分けが要求されることにもなってくる。
ちなみに、「現在の日本語の社会では、厚いと熱いとは別の語である、同じではない」と見なすことに対して反例らしきものを挙げることも不可能ではない。たとえば「あつい心」のような場合、「“あつい”はどれも同じ一つの和語であり、意味も一つである」と見なすことも不可能ではない。それは「厚い心」と「熱い心」の中間に「篤い心」のような例をもう一つ挿入してみることによって、である。そうすると、「篤い心」と連続した用法として「厚い心」と「熱い心」とが位置づけられることになる。この三つなら連続してると見なすことができ、その全体として「意味は一つ」と見なすことが不可能であるわけではない。むしろそう見なすことが自然に思えてくる。
そういうわけで、この例だと「あつい」が「和語であり意味は一つである」と言い切れるか自信が無いので、高島氏の挙げている「とる」の例で同様の立論をしてみる。高島氏なら「とる」は「和語であり意味は一つである」と述べるだろうが、しかし現代日本語の用例だとそうはいかないのではないか、という例を挙げることは不可能ではない。例えば「セミを撮る」や「宝石を撮る」という内容を述べたい人は「セミをとる」「宝石をとる」とは表記できないはずである。なぜなら「セミを捕る」や「宝石を盗る」と誤解されうるからである、というわけだ。要するに、由来としては「とる」は「一つの語」だろうが、現在の用法では「とる」は「一つの語」ではない、「撮る」と「捕る」「盗る」とは別の語である、という考えである。これ自体はやや詭弁的な事例だが、この考えを教育現場に持ち込めば「だから“とる”は漢字表記すべきであり、かな書きにすべきではない」という主張にいずれ至る。
さて「だから“あつい”“とる”は漢字表記すべきであり、かな書きにすべきではない」というタイプの主張には一つ考慮すべき点がある。それは「あらゆる用法をすべて事前に知っている」かのごとき状態を、学習途上の状態のうちから先取りしていないといけない、ということだ。たとえば「厚い」はまだ習っていないから知らない、「暑い」「熱い」という漢字しか知らない、という段階であっても、漢字での書き分けが要求される。「だって、「厚い」と区別する必要があるでしょ!」とまだ習っていない用法を根拠に、それが求められる。そういうことだ。
ただし注意しておく。「厚い」と「熱い」や、「撮る」と「捕る」を「同じ和語だからかな書きせよ」という由来を重視する側も、別段、この二つをかな書きにして混乱して構わない、とは述べないだろう。述べるとすれば、この二つをかな書きにせよ、しかしこれらの間に取り違えや混乱が生じるような語句や文を作るな、とそのように述べるであろう。つまり私が事例を挙げたような「あつい鉄板」や「セミをとる」のような語句は「悪い見本」であり、このような文意がまぎらわしくなる表現は避けよ、となるわけだ。なので、「かな書きせよ」という「由来」派であっても、「あらゆる用法をすべて事前に知っている」かのごとき状態を、学習途上の状態のうちから先取りしていないといけない、という点は共通して、学習途上の生徒に求められることになる。この点には注意されたい。
次に、漢字の書き取りにおける「ハネ」の有無等の細かい書き分けに関する「減点」などについてである。阿辻哲次『漢字を楽しむ』p86-88より。なお「冒涜」の「涜」の文字は、原文では紙媒体でのみ流通可能な文字のほうである。
よく聞く話だが、小学校や塾の先生のなかには「ほんとうにきびしい方」がおられ、国語の書き取りテストはいわずもがな、社会や理科のテストでも(はなはだしきは家庭科や体育のペーパーテストにおいても)、答案に書かれた漢字が国語の教科書に印刷されている形と少しでもちがっていれば、そのつど赤ペンで「正しい字形」をこまかく指摘し、その添削がなんどもくりかえされるとついには減点される、ということまであるらしい(知人の子どもが経験した実話である)。(中略)
だがお母さんたち、どうか安心してください。その先生は教育に「きびしい」のでもなんでもなく、漢字に関する正確な知識がなく、どのように書くのが正しいのか自信をもって指導できないから、単に教科書などに印刷されているとおりでないと、安心して「正解」とできないだけのことなのです。
要するに正誤の判断の論拠として教科書や辞書にしか頼れないのだが、しかしその教科書や辞書はあくまでも「印刷物」であって、そもそも手書きの字形と印刷物の字形がちがう性質のものであることを根本的に認識していない。さらにはその印刷物においても、教科書や小学生用の辞書に印刷されている漢字の書体が、いったいどこでどのようにして定められ、またこれまでの教育の歴史のなかでどのように変化してきたのかという、漢字の学習を指導する際の根幹に横たわっている問題をまったく考えようとしていない。さらにいえば、そのような問題が存在すること自体に対してすら、無知で無関心なのだ。
かつて私の子どもが経験したように、こんどもしもだれかが書き取りのテストで「校」とか「松」という漢字にある木ヘンの下をハネてバツをつけられたら、唐代の楷書の名手として知られ、中国書道史を代表する書家の一人として、昔もいまも書道関係者や芸術家が崇敬してやまない顔真卿(七〇九~七八五年)が、「校」や「松」を図のように書いているが、それはまちがいなのかと聞いてみればよい(以下図版は主として二玄社刊『大書源』所掲のものによる)。そのときに先生がどのように説明されるか、非常に楽しみなことである。昔といまはちがうとか、中国と日本はちがう、というのでは答えになっていないし、顔真卿の文字はのちの明朝体活字設計のモデルとされたといわれるほどに、漢字の規範として伝統的にうやまわれてきたものなのである。この字形を否定することは、伝統的な漢字文化に対する冒涜といっても過言ではない。
学校や塾などの学校化された社会において、「漢字のハネ・トメ等」が採点基準として猛威を振るっていることは周知の事実だろう。私もそれを全く好ましく思わない。なので、阿辻氏のような専門家が「漢字文化の伝統」を根拠にして「そんな採点基準は恣意的であるから、もっと大らかに評価すれば良い」と主張するのは尤もである。だが、これもひとたび義務教育の現場(や塾)に持ち込まれると、別種の規範と化す危険はあるのだ。つまり「中国書道史では木ヘンはハネている、と中国文学の専門家が言うのだから、木ヘンはハネるのが正しい。ハネないと誤答にする」という具合にである。実際にはそのような事態に至ることはまず在りえないが(現代日本の政権は中国の伝統を尊ぶ体質ではないので)、しかし間接的になら在りうる話なのだ。たとえば間に文科省が入って、文科省が漢字の専門家の主張を採用し、その文科省の意向を教育現場や教育産業が忖度する、ということなら絶対に在りえない話ではないのだ。また、これよりもう少し在りうる展開としては、中国文学の専門家ではなく、日本史における漢字の受容の専門家を文科省が尊重する、という事態が在りうる。たとえば○○天皇とか、尊王攘夷派の思想家の××が、このように漢字を書いていた、この人物は「日本における漢字文化」の権威である、だからこの漢字は同じように書くのが正しい、他は全部誤答である、というわけだ。これなら全く在りうる。
現在の教育現場での漢字の字体の「根拠」になっているのは、p125でも紹介されている、内閣告示の「当用漢字字体表」のようである。これとあと教科書体という書体での字体が根拠となって、教育現場等での漢字テストの採点が行なわれ、往々にしてその基準は過激に厳密となるわけだ。
ここでもまた「漢字の伝統」を根拠にして「だから○○でなくても良い」という寛容(こそが正しい)という主張が在りうる一方で、それを現場に持ち込むと「だから「××でなくてはダメだ」という別種の規範に転化してしまうリスクも在るわけだ。ただし、漢字の場合は、そもそも根拠とする伝統を中国の書家におくのか、それとも日本での受容におくのか、といった対立も在りうる。私の見込としては、「漢字の日本における受容の伝統や歴史」を根拠にした漢字表記の規範なら、全く在りえない話ではないと思っている。ともあれ、ここでは「○○でなくても良い」という主張は往々にして「だから××でなくてはならない」に転化しうる、という点に注意を払っておきたい。
漢字に関しても「伝統」を根拠にした主張に対して、「現況」を根拠にした主張もいちおう在りうる。この場合「漢字のトメ・ハネ」に関しては、他と紛らわしくない限りは寛容だが、他と区別がつかない場合には寛容でなくなる。再び、阿辻氏の叙述を参照しよう。p83-84。なお、●の漢字は電子媒体では文字としては表記が困難な文字であり、「迂」の部首をさんずいに置き換えた文字である。
このように厖大な種類に達する漢字のなかには、おたがいによく似た形の文字がたくさんあって、そのなかにはもちろんきちんと区別しなければいけない漢字群が存在する。
だれでも知っているように、「大」と「犬」と「太」と「丈」、あるいは「水」と「氷」と「永」、また「王」と「玉」、「木」と「本」「末」「未」では、点の有無や位置でちがう漢字になるし、「上」と「土」では上部にある短い横線が縦線をつきぬけるかどうかが重要なポイントになる。「于」と「干」はまったくちがう漢字で、「物干しざお」を書くつもりで「物于しざお」と書いたらあきらかにまちがいだし、それを構成要素とする「汗」と「●」(「汚」の異体字)も、厳重に区別されなければならない。(後略)
と、この箇所を読むと、「だれでも知っている」とは到底言えないような漢字の存在まで考慮して、漢字を書くときに配慮しないといけない、と著者は主張していることになる。これはどう考えてもどこかに無理が来る。「物于しざお」と書いたらまちがいだと言われても、困る。木ヘンはハネても良いが、「干」の字はハネたらいけない、というのは、一般人の漢字の知識の範囲を全く越えている。まして初中等教育の生徒にとってはなおさらである。となると、そこまで高度でない書き分けだって同じことが言えるかもしれない。たとえば「末」と「未」の書き分けだって、どちらか片方しか知らないという状態の子供にとっては、「なぜこんなに厳密に長さを考慮して書かないといけないの」かが分からず、混乱することも在るだろう。或いは、膨大に存在する異体字の存在を考慮して、異体字の存在する文字だと非常に厳密に書かないと誤答にされる、ということも在りえない話ではない。そして、学校現場というのは往々にしてその「厳密さ」の基準が全く恣意的であり過激に走りがちなのである。たとえば「犬」という漢字の「てん」を1センチくらい右側に書いたら誤答とか、5ミリくらい長かったら誤答とか、学校教育というのはそういう滅茶苦茶がまかり通ってしまう世界なのである。そこにこの阿辻氏の言うような「物于しざお」だとか、電子だと表現できないほどの稀な異体字の存在まで持ち出されたら、漢字の書き取りがどれだけの苦行になるかは想像に難くないのである。
学校教育現場における漢字の書き取りや使用に関して、少し論じてみた。そこには「由来」「伝統」を根拠にした立論と、「現況での識別」を根拠にした立論が在りうること、また「伝統」といってもその根拠も複数の候補が在りうること、を述べた。現在においては専門家の知見はまるで無視されている状況であり、そのことは当然良くないにせよ、その正反対に振り子を振った場合にも行き過ぎの危険が在ることを、指摘した。漢字の専門家の見解も事実に関するものもあれば、あきらかに専門家の独自の価値観に彩られた主張も在る。また専門家の主張に依拠していても、それを文科省というフィルターを通すことによって独自の政治力学が作用しうることも、想定できる。私は何にしても、「○○して良い」「○○した方が良い」という程度にとどめ、「××してはいけない」「××したら誤答である」というのは好ましくないと感じる。だが、どのような緩い規範であっても、その「運用」において恣意的になったり過激になったりはする。5ミリ長さや位置が違えば誤答にする、とかそういう「運用」も在りうるし、稀なケースや異体字の存在を根拠に正答や誤答の判定を決めることも可能である。そのことに対する危機意識だけはもってほしいと思い、この文を書いてみた。