宇佐美寛氏の「事実と意見」の議論を整理してみる

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少し古い文章を改題して再掲します。

宇佐美寛は国語教育における「事実と意見の区別」という話題に関して、一定の見解を提示しています。その見解は、論敵の不備を突くという形で展開されており、自身が積極的な代案を出す必要は無い、との姿勢で書かれています。そのため、立論のところどころに不備や無理が在り、それが議論の進展を妨げているように見受けられます。そこで、その不備や無理を指摘し、そのことによって議論が次のステージに進めるようになることを目指して、この文章を書きます。

宇佐美寛『国語教育は言語技術教育である』の7章「“事実(事象)と意見”という迷信」および8章「“事実と意見の区別”は迷信である」を検討します。ただそこで標的となった加藤周一の文章には、ここではあまり深入りしません。それだと別の話題になってしまう点が多いからです。

なお、ウェブ上の文章であり使用可能な文字・書体が限られているため、引用が原文に完全に忠実にはならない場合が在ります。またそれも在って、鍵括弧の扱いは通常の文章で行なわれている程度の厳密さでしか扱いません。なお、文レベルの引用はすべて引用タグで行ないます。

で、一読すると感じることは、議論の道具立てが足りないということでした。「語る」と「示す」の区別はしたほうがいいんじゃないの、とか、「言葉の意味」と「発話によって言わんとすること」とは区別したほうがいいんじゃないの、とか、そのあたりのことを感じます。

「語る」と「示す」についてはたとえばこういうことです。「私は2016年6月7日~8日にかけて一晩中涙が止まりませんでした。」という自作の例文を検討してみます。さて、これは事実か意見か、という話です。もちろん、ここでの事実というのは、事実になりうる文ということであり、事実として誤った文であっても構わないのです。事実として正しいか誤っているかは国語科では検討しきれないからです。で、事実か意見か。で、もちろん事実を述べた文で良いとわたしは思います。ですが、宇佐美はこういう種類の文だとそこでもう一言言いたくなるようなのです。「この文は話者の意見も述べているのだ」というような種類の主張をです。ですが、こういう場合は「事実を“語る”ことによって、意見を“示し”た文である」という扱いでいいのではないでしょうか。文によって語られている内容と文によって示されている事態とは、或る程度までは区別できます。だからそれで良いと思うのです。わざわざこういうときに「事実を語ることと意見を語ることとは区別できない」という種類の主張まで言い募る必要は無いと思うのです。だってこの場合、意見を語ってなどいないですから。

p129にそのような事例が在ります。

また、(2)の文「大阪弁では値打ちのことをネブチと言い、なにより貴ばれます。」という文は、言語学的事実、心理的事実を述べている形式である。しかし、実際に読む過程では、読者は「なにより貴ぶべきものです。」という価値判断を述べる文と同意味に理解する。また、筆者もそれを期待して書く。つまり、文の形式と文の解釈内容とは異なるのである。

この記述だけなら特に問題は在りません。ですが、このくだりは、少し前に書かれた次の箇所に後続し、その論拠として用いられているものです。p128。

次のような俗見は、前節で論じたように、いずれも誤りである。

1.「事実」を述べる文と「意見(考えや気持ち)」を述べる文とを区別し得る。

(2)の文は、事実を語ることによって意見を示した文だと見なすことができます。ですから、事実を述べる文と意見を述べる文とを区別し得るというのは誤りである、ということの論拠にはなりません。「語る」と「示す」の区別、あるいは「文の形式」と「文の解釈内容」の区別をしっかりしていればそれで済む事例なのです。

宇佐美の次の主張の一部は首肯できます。p124-125。加藤周一の「“知る”ということ」を引用している箇所です。

なども、その人の希望や気持ちを述べている文です。(3)は「雑誌が読みたいと思う。」という意味で、その人がそう希望しているのです。(4)も、「悲しいと思う。」の意味です。

右に述べたように、この(3)・(4)の文に限らず、全ての文は「……と思う。」の意味なのである。だから、希望や気持ちを述べている文だけが「……と思う。」だという、この主旨は誤りである。また、これらの文は、「自分は読みたいと思うという心理状態にある。」「自分は悲しい状態にある。」という事実を述べている文でもある。

これらの箇所のうち、最後の「また、…」の一文は留保つきで賛同できます。「友達に誤解されると悲しい、という心理状態」という事実が存在する、というのは脳科学や生理学のレベルで存在するというよりも、文そのものが産み出す事実性だと言えます。つまり、その文が事実を述べる文の形をとっていることから、そういう心理状態という事実というものが存在するということに文解釈上しておこう、という一種の日本語上の規約として存在するのだと言えます。

ただし、これといっけん類似した次の箇所は首肯はできません。p126。

「明日は必ず行きます。」は、意志を述べた文でもあり、意志という心理状態の存在という事実を述べた文でもある。

この説明は「語る」と「示す」の水準を混同しています。「明日は必ず行きます。」は、意志を語った文であり、意志という心理状態の存在という事実を示した文である、というのが妥当な説明です。もし心理状態の存在という事実を語る文を考えるなら「明日は必ず行くという意志が在ります。」といった文でないといけません。

ところで、p81の宇佐美の主張は、氏とは違った意味合いで賛同できます。

「事実」と「意見」という命名・分類は誤っている。

命名が誤っているという著者のこの主張を、宇佐美自身が態度で示しています。それは「意見」という語の揺動的な表記の仕方でです。

p75では「意見・感想」という書き方がされており、この二つが並列的であるかのように扱われています。p79では「考えつまり意見」という書き方がされており、意見の同義語の一つに「考え」という語が在るかのように扱われています。同じページのその直後に「立場(意見)」という書き方がされており、この二つが互換的なペアであるかのように扱われています。p82では「意見(感想)」という書き方がされており、この二つが互換的であるかのように扱われています。p125では「意見(考えや気持ち)」という書き方がされており、意見と考え・気持ちが互換的であるかのように扱われています。p129では「意見(判断)」という書き方がされており、意見と判断とが互換的であるかのように扱われています。

このように融通無碍に「意見」という語を使うことができてしまうのなら、これは「意見」という命名・分類が間違っている、という主張に説得力を与えることになります。宇佐美のこの融通無碍な語用法は、論敵のものでこそあるからです。木下是雄の論文の書き方本における一大特徴に「事実以外皆意見」という大まかさがありました。おそらく宇佐美の論敵もこの大まかさを木下本と共有しており、したがってその大まかな用法に従って批判をせざるをえなかった、というところなのでしょう。そういうわけで、事実と意見という命名・分類は間違っているとの主張に、宇佐美とは違う理由からですが賛成です。

「言葉の意味」と「発話によって言わんとすること」とは区別したほうがいいんじゃないの、という論点は簡単に済ませます。「今朝は、氷がはっていました。」という例を宇佐美が持ち出すときに、つい感じてしまう点です。この文が事実か、意見か、って問いますが、むろん事実に決まっています。というのも、言葉のレベルで事実を表現している言葉だからです。これを「意見」にしているのは、発話状況のレベルでです。発話状況によって、事実を述べるこの文が「石油を持ってこい」という要請を伝達するという発話になるのです。こういう話題は、おそらく事実と意見の区別という話題と別におこなったほうが良いものです。慣用句とか比喩とか皮肉とか間接的発話行為とか、議論をし出すときりがない言語領域が在りますから、そういった領域の一現象として考察するのがふさわしいと言えます。

ここまでの記述では、「六年生はいそがしい。」(p82の例を単純化したもの)、「たくさんの仕事がある。」(p82の例を単純化したもの)、「あの青年は善人だ」(p126)といったタイプの文について扱いませんでした。こういった文の扱いこそが議論の中心を占めるのが適切だと思います。宇佐美のこの文章は、いろんなタイプの主張をあれこれ並べ立てるので、問題の所在が見えにくくなります。

こういったタイプの文についての私見を述べておきます。とは言えまずは違う話題から始めます。「死んだ比喩」という現象が在ります。当初比喩表現だったものが、紋切型と化してもはや文字通りの事実表現のように思えてしまうという現象です。「机の脚」とか「パンの耳」などが典型的でしょうか。これらは、もはやそういう仕方でしか表現できない、という点で、事実表現にほとんど昇格してしまっていると言えます。で、これと同じようなことが、比喩以外にも言えると思うわけです。「いそがしい」とか「善人だ」という表現は文字通りみれば、ほとんど発話者の評価や態度を表す表現、いわば「意見」を表す表現だと言えます。ですが、これらのような表現が多くの人の間で長期間安定的に用いられることによって、事実を表現する性能を或る程度獲得し、半ば以上事実表現になってしまってもいるのだ、というわけです。「いそがしい」というのは「多くの人がいそがしいと評価する程度の状態である」、「善人」というのは「多くの人が善人と評価する程度の人のことである」とでもいうように、です。ただし、これらは事態を集約的に表現するものであって、より詳しい事実表現で補足することが可能であり、のみならず、時に望ましいことは言うまでも在りません。以上が、こういったタイプの文表現の分類に関する代替案です。

このくらいでも、議論はだいぶ見通しが良いはずであります。