大学を選ばされるときの自衛策

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少し古い文章であり他の既発表の文章と重複した内容も在るかもしれません。また筆者の考えが変わった箇所も在るかもしれませんが、当時のまま再掲します(2023年に少し修正しました)。

高校生が大学を「やりたい内容」で選ぶのは不可能です

高校生が大学を「やりたい内容」で選ぶというのは、もうめちゃくちゃな話であって、端的に無理です。まだ一度もマンガを読んだことのない幼児に、将来どこの出版社からマンガを出版したいか、とか、どの編集者にアドバイスされたいか、を決めさせるようなものです。或いは、一度もサッカーの試合を見たことの無い幼児に、将来どこのサッカーチームに所属したいか、とか、どんなコーチや監督に教わりたいか、を決めさせるようなものです。

たとえて言えば、たくさんのマンガを読んだり、たくさんのサッカーの試合を見たりして勉強するような場所が大学だと思っている人がいます。つまり既存の知識を「学習」するところが大学だと思っている人がいます。まあ、間違いだと言ってもいいでしょう。マンガをたくさん読むのは、マンガを描くためです。サッカーの試合をたくさん見るのは、サッカーをやる参考にするためです。と、そのように思っていたほうがいいです。大学で「学習」をするのも、「新しい知識」を生み出すためにすぎない、と思っていても良いほどなのです。

ですから、高校生が大学を「やりたい内容」でどうしても選ぶとなれば、そのために自衛できる方法は、実際にやるという経験をあらかじめしておく事しか在りません。マンガ出版社を選ばされるのなら、その前にまず実際にマンガを描いてみること、サッカーチームを選ばされるのなら、その前にまず実際にサッカーをプレイしてみること、です。そうしないと、「自分の力と自分の課題に見あった」指導者を探すことができないからです。同じように、大学を「やりたい内容」で選ばされるとなれば、その前にまず実際に論文を書いてみること、そのためにまず研究を始めてみること、になるはずです。

残念ながら、というか、大学というのは、「マンガを描けないけれど読むことは大好き」「サッカーをやれないけれど試合を見ることは大好き」という人のためには、できていません。他人の論文や研究を読んだり見たりするのは好きだけど、自分で研究はできないし論文を書けない、という人のためには、大学という場所はできていないのです。だから、他人のマンガ作品や他人のサッカーのプレイを鑑賞するのが好きだから、とか、尊敬するマンガ家やサッカー選手がいるから、というだけの志望理由で、大学に行くことは決して手放しで薦められることではありません。

高校生は論文に手を出さなくて良い

でも、だからといって高校生のうちに論文を読んだり書いたりする必要なんて無い、ということも言っておきましょう。

論文というのは、「新発見」をした報告をする文章だと思ったほうがいいです。「新発見」をするためには、自分がしたことが「新発見」であるということを識別できないといけません。つまり「すでに発見されたもの」をたくさん知っている必要が在ります。「すでに発見されたもの」の知識が無いうちに、「新発見」はできません。ほとんど何も知らないという、ふつうの高校生であれば何だって「新発見」です。でも、それは求められているものと違います。「専門家にとっての新発見」だけが、論文に書く価値が在る内容です。

あと、もう一つだけ。もしかすると、高校生のまわりにも「高校生のうちから論文を書こう」と言ってくるおとながいるかもしれません。たぶん、そういう人は、論文というものを、自分の意見を主張するものだと思っているのでしょう。そういうおとなは、基本的には信用には値しません。というのも、まず絶対、そのおとなは自分で論文を書いたことが無いからです。論文を書いて、学会誌に掲載されて、という成功経験の無いおとなが「論文を書こう」などと言ってきたら、それはほとんど詐欺です。その手に引っ掛からないようにしましょう。論文以外の著作が何冊在っても、それは無関係です。

さらについでに言っておくと、そういう成功経験のあるおとなが書いた本であっても、「論文の書き方」という本は、それ自体が論文でないなら、その本は信じないほうがいいです。「“論文の書き方”という論文」なら自分の主張は自分のその論文でも実現していないといけませんが、「“論文の書き方”というたんなる本」だと自分では実現できていないことを「論文たるものこのようにせよ」と主張することができてしまうからです。「主張には理由を書け」という主張の理由を書かない「論文の書き方」本や、「論文はパラグラフライティングで書け」ということをパラグラフライティングで書かない「論文の書き方」本にはだまされないようにしましょう。

さきほど、論文を書くことを、マンガを描くことやサッカーをプレイすることになぞらえましたが、ここで少々微修正しておいたほうが良いでしょう。論文というのは、「一般読者向けの読み物ではない」という特徴が在ります。簡単に言えば、論文というのは、論文を書く可能性のある人だけを対象読者とした読み物なのです。だから、強いて言えば、マンガ家しか読まないようなマンガ作品を描くことや、サッカー選手しか観戦していないサッカーの試合をやるようなことに近いのです。そこで、専門家にとっての「新発見」を競い合う、というのが、まあ学者の書く論文の在り方なわけです。少々きれいごとめいていますけど、そう思っていて良いと思います。一般読者が読むマンガ作品を描いたり、一般の観客に見えるようにサッカーの試合をするのとは、そこが違います。一般向けのマンガ作品は売れることが大事ですし、一般の観客向けの試合は勝つことが大事です。「新しいマンガ技法」や「新しいサッカー技術」をその都度発明して繰り出さないと失格になる、というわけではありません。

そういうわけで、大学生だって「新発見」をすることなどほとんど無理ですから、まして高校生がそのまねごとをする必要は在りません。つまり、論文を読んだり書いたりする必要は無いのです。それ以前に、一般読者向けに書かれた本を読むほうが良いわけです。そこには「旧発見」がたくさん記されているでしょうから。

再び、高校生が「内容」で大学を選ぶのはまず無理です

高校生には、大学を選ぶための情報はほとんどまともに与えられていません。大学での学問を假に「Xという対象をMという方法で研究したもの」と定義してみましょう。このとき、「X」についての知識が高校生に無い場合がとても多いのです。経済学部では経済学については初歩から教えてくれるかもしれませんが、経済の初歩から教えてくれるとは限りません。文学部では、たとえばフランス文学研究については初歩から教えてくれるかもしれませんが、フランス文学作品まで初歩から読書案内をしてくれるとは限りません。これもまた、「高校生が論文など読んだり書いたりする必要が無い」理由の大きなものです。そんなこと以前に知らないことが多すぎますし、特に文系の場合、大学受験の勉強が少ししか役に立ちません。

また、大学での学問のなかには、「Xという対象」と「Mという方法」とが分けることができないくらいつながっているものも在ります。心理学とか社会学とか哲学のような、日常生活を対象にしたような学問だとこのことが際立ちます。この場合「X」の方で大学を決めるのではなく、むしろ「M」の方で決めるのが良いのですが、ということはつまり、「M」についての知識が無いとまず無理なため、やはり高校生には不可能な選択となっています。この状況に近いのは、外科と内科の区別でしょうか。内臓の具合が悪いときは内科で、筋肉や骨の具合が悪いときは外科、というふうには医療は分かれていません。まして、「病気のときは内科で、怪我のときは外科で」などでは、ありません。言うまでもなく、内臓の具合が悪い場合で外科手術が必要なら外科、という事態は在りうるわけです。ここでは「内科という方法」と「外科という方法」によって医科が分かれているのだと思ったほうがいいのです。日常生活を対象にした学問にも同じことが言えると思ったほうがいいでしょう。たとえば「心理について知りたいから心理学を学びたい」というふうには、学問は分類されていない、ということなんですね。それよりは「心理学という方法で探求したいから心理学を学びたい」という方が、よりまともな選び方です。

「不思議さ」の根拠を考えてみるという方法

高校生にできるのは、たまたま目についた進学先の候補が「自分に合いそうかどうか」の識別までだと思います。そのための、ヒントになりそうな方法を提案してみようと思います。

それは「自分の問い」を見つけようとしてみることです。

問いにもいろいろあると思いますが、ここでは「不思議だなあ」という感覚を重視したいと思います。「不思議だなあ」というのは、「ふつうなら○○なのに、この場合は××だ。なぜだろう。どうなっているんだろう」と表現することができます。「自分の問い」を見つける、というのは、この○○とか××といった空所に入るような内容を自分で見つける、ということになります。そして、このような形で、不思議だと感じる理由や根拠を明確にしようとしてみることが、自分の問いを見つけることの一つの方法だと思うのです。

たとえば、本当にたとえばなのですが、「学力低下はなぜ起こったのか?」という問いを掲げている、研究室とか著作とかがかりにあったとします。この研究者の問いは、はたして、高校生のあなたの知りたいことなのでしょうか。それを「識別」してみたいと思います。

「学力低下はなぜ起こったのか?」は「ふつうなら○○だが」という箇所の空所に入るような内容をもつことができるでしょうか。たとえば「ふつうなら学力は下がらないはずだが、実際には学力は下がった。なぜだろう」というふうに言えるでしょうか。それを「識別」してみましょう。

ごく素朴に考えて、同じような教育制度が長年ずっと続いていれば、学力は下がるほうが自然な気がなんとなくします。だいたい、どんな制度でも、ずっとだらだらと続いていれば、だんだん形骸化・形式化して、何のためにやっているのかがだんだん曖昧になり、中身が無くなっていくものです。大きな政変とか事件があったのならまだしも、そこまでのものが無ければ、そうなることは充分自然です。少なくとも、そのような状態を想像することは容易です。

さらに加えて常識的な疑念をぶつけてみると、子供の人口が減っていて、なおかつ、大学の定員が大きく変わらない場合、「みかけの学力」が低下することも、十分想像できるということが言えます。昔だったら、人口の上位2%しか入学できない大学に、子供の数が減って上位8%まで入学できるようになれば、その大学の学生に関しては「学力が下がったようなかっこう」になりえます。なってもおかしくはありません。そういう大学の教員が「学力が下がった」と主張している可能性も在るわけです。

もう一つさらに言えば、もし「世代が若くなればなるほど学力が低下していく」というほどに、単純にして強烈な学力低下がもし起こっているとすれば、ある段階からそれは加速することが、容易に想像できます。そうです、「学力低下した世代の教師に教わることでますます生徒の学力が低下する」という段階に突入するはずだと言えるのです。つまり、「ふつうなら学力は低下しないはずだけど」と言える可能性が減るはずなのです。

こうやってみると、素朴に考えたかぎりでは「ふつうなら学力は下がらないはずだけど、実際には学力は下がった。なぜだろう」というふうには言いにくいことがわかります。「学力低下が不思議だ」ということを主張する理由が、なかなか考えつかないのです。「低下」という変化のあり方そのものにはおそらく不思議は無いのです。

誰にとっての「不思議さ」なのかを考えてみるという方法

私がもし高校生の立場なら、知りたいのは「なぜ」とかそういうことよりも、端的に「学力の高い状態」そのものだと思います。つまり「どういうふうになっていたのか」が知りたいわけです。もちろん、個人ではなく世代とか集団の学力の話です。そして、もしそういう問いをもった人が、自分の問いを微妙に誤解した場合は、次のような問い方になると思います。「なぜ、昔にさかのぼるほど学力が上昇していくのか?」、これです。もちろん実際に「上昇」していないと話になりませんが、そしてそれはきわめて疑わしいのですが、ひとまず「知りたいこと」は、そういう形で把握されたわけです。知りたいことにもう少し忠実に問うなら「なぜ現在の年長者はかつて学力が高かったのか?」と、こういうふうに把握し直すこともできます。さらにいちだんと知りたいことに忠実に問うなら「現在の年長者はどういうふうになっていてかつて学力が高かったのか?」ということになります。

このように問うてみると、なぜ同じような問いを掲げる研究室とかがなかなか無いのかがわかります。だってそうでしょう。「現在の年長者はどういうふうになっていて、かつて学力が高かったのか?」の調査をしている、研究者や著作が居たり在ったりすると思いますか。そんなことに「現在の年長者」が関心を持つ、ということはいかにも在りそうに無いことなのです。だって、自分の同世代のことだもの、調べなくても皮膚感覚的に知ってるよ、というわけです。「現在の年長者」が知りたいとすれば、「もっと昔の人」の話か、「現在の若者」の話になるに決まっています。そっちは、皮膚感覚的には知らないからです。

「現在の年長者がかつて生徒だったときの学力」について調べることは、高校生にとっては「新発見」かもしれないけど、「現在の年長者」にとっては全然「新発見」ではないし、反対に、「現在の高校生の学力」について調べることは、現在の年長者にとっては「新発見」かもしれないけど、「現在の高校生」にとってはちっとも「新発見」ではないかもしれない。でも学力を研究しているような学会には「現在の高校生」はいないし、その中心は「現在の年長者」なのであるから、したがって「現在の高校生の学力」が「新発見」であり、「現在の年長者のかつての学力」は「新発見」ではない、というわけです。つまり、前者は論文のテーマに値するけど、後者は論文のテーマには値しない、と学会によって決められるかもしれないわけです。

これはちょうど、「アメリカ大陸」が「新発見」の対象かどうかを決めるのに似ています。アメリカ大陸をコロンブスが「発見」した、という言い方をするのはヨーロッパの人たちです。かたや、昔からアメリカ大陸に住んでいる住民にとっては、当然ちっとも発見ではありません。コロンブスたちの一行が現れたことのほうが、先住民にとってはよほど「新発見」です(しかも悪い意味で)。でも、ヨーロッパの人たちと、アメリカ大陸のネイティブ住民とでは、力の差があまりにも在り過ぎました。だから、結局「強い者」にとっての「新発見」こそが「真の新発見」である、とされてしまいます。「学力」についても同じことが多少は言えると思います。

このように、「力の強い者にとっての新発見」にどうしても価値がおかれます。ですので、「いや、それでも自分はこれが不思議なのだ」「いや、それでも自分はこれが知りたいのだ」「自分にとってはこちらが新発見なのだ」ということを、しっかりと持っていることが、重要になるのです。少なくとも、そういったものを持たないよりは、「情報の多さ」に惑わされない、大学選びができる可能性がはるかに高まるのです。

「偏差値」の効用と限界

いろいろ言ってきましたが、結局は、高卒程度の知識とごく限られた情報の範囲内だけで、内容本位の大学選びをすることには限界が大いに在ります。そこで役立つのが大学入試の「偏差値」です。ただ気をつけたい点が在ります。

「偏差値」「入試」によって選ばれた集団は、学生どうしが或る程度は似たような者同士になるので、「偏差値」「入試」はとても役立ちます。或る程度似たような者同士のほうが、生まれ育ちや家庭の傾向や言語活動の特徴や知識の幅などが似ていて、そのため過ごしやすく、研究や討論といった共同的な活動もやりやすくなります。入試によって大学側が学生を選んでくれるおかげで、ある程度は大学生活がやりやすいようになっているのです。「やりたいこと」本位で選ぶことなどどうせ現状では無理ですから、「偏差値」によって大学選びに一定の制限がかかっていることは、ある面ではとても良いことだと思います。

先ほどから言っているように、「ふつうは○○だ」という事態からのズレが「不思議さ」の根拠になりうるのでした。この「想定するふつう」というのが、また、偏差値が同じような学生どうしだと、ある程度似て来やすい、ということが言えるのです。そのため、自分の問いが同級生に理解されやすい、ということも言えます。「偏差値」は、「事態を不思議だと感じる理由」にまで影響している可能性も在るのです。

「偏差値」を高めようとすることは、一面では、自分の関心を広げたり大学や専攻分野を選ぶ時間を失わせていきますが、別の一面では、自分とより似たようなメンバーと学生生活を過ごす機会を作り出しているとも言えます。まあ、ほんとうは「偏差値」だけでなく、「受験科目」もまた、似たような学生が集うことに負けずに貢献しています。

反面、これは大学というところの宿命みたいなものですが、教員と学生とはその点で似た者同士にはなりやすいとは限りません。大学教員をたくさん輩出しているような大学であれば、教員と学生は或る程度似たような生まれ育ちであり、世代を超えて理解しやすい部分も在るでしょう。しかし、大学教員をほとんどまったく輩出していないような大学であると、教員と学生とは必ずしも似たような生まれ育ちではなく、したがって、学生の考える「ふつうは○○だ」と、教員の考える「ふつうは○○だ」とが似てこない可能性が在ります。つまり、学生のもっている「自分の問い」が教員に理解されにくい、或いは教員のいだく「自分の問い」が学生に理解しづらい、ということが起こりやすくなります。

また、当然のことながら「Xという対象をMという方法で研究したもの」が学問だとして、その「X」が受験科目との関連がほとんど無いものの場合、基本的には、その進路に進んだ大学一年生は、その「X」についてほとんど何も知らないと見て良いでしょう。そういうときに、「対象X」に興味があり、したがって当然詳しい、という人がそれを理由にその進路を選んだ場合、他の学生とその点ではまったく似ていない、ということにはなります。「経済に詳しいから経済学部」とか、「フランス文学作品に詳しいから仏文科」という選び方をした場合、ある面では他の学生と似ていると思いますが、経済なりフランス文学に対する知識や関心では、その学生は他の学生から良くも悪くも浮いてしまうことは大いに在りえます。この場合は、他の学生よりは教員とのほうが接点が作りやすいと言えますが、それは偏差値が近いことによる類似性とはまた異なるものだとも言えます。

なぜこんなに浮世離れした話をするのか

おそらく、ここまで書いてきたような事柄に、ほとんどの高校生・高校生相当のみなさんは、「まったく無縁」という感想をもつと思います。自分の暮らしている世界のなかにほとんど関連する事象をもたないあれこれを述べている、と思われたと思います。

ここに書かれたことに、多少とも思い当たるようなふしがある読者は、おそらく、比較的恵まれた(とされる)環境にいる場合が多いでしょう。そういう環境だと、「たんに大学入試の勉強ができるだけではダメだ」のような言い方が高校生に対して脅しのように使われているからです。その際に「憧れの選手のいるチームを目指せ」つまり「憧れの学者のいる大学を目指せ」のような言い方をする大人や、「高校生のうちから論文を書こう」のような言い方をする大人が、必ず現れます。そこまで行かなくても、「内容」によって大学を、学部を選びなさい、のようなことまでは言います。そういう人のほうが何か偉そうにしています。

と同時に、そのような比較的恵まれた環境の高校生は、往々に次のようにもなっています。たとえば、東大の志願者と、慶應大SFCの志願者は、こういった問題に直面しないようにできています。というのも、これらは入学してから選択できる幅がかなり在る大学であり学部なのです。だから入学するまでは受験勉強に専念して良いのです。日本のトップクラスの学生のうち、この二大学の学生がけっこうな割合を占めるため、また、他大学も含め、法学部法学科と医学部がかなり世襲的な学部であるため、或いはこの問題はもともと文系固有の問題であり理工系・医歯薬系には比較的影響しないため、ようするに「優秀な大学生」のかなり多くは、「高校生のうちに大学を内容によって選ばされる困難」に直面しません。親が弁護士や医者だから自分も法学科や医学部を目指すという受験生、高校のときの数学や理科が面白いから理工系を目指すという受験生は、そういう問題が存在することにすら気づいていないかも知れません。社会を変革しようと試みるのは、しばしば、もっとも「恵まれた」階層の人間であるのに、その恵まれた階層の人間は、比較的この問題に直面しない割合が高いようにできている、だから変革が「社会構造的に」起こりにくいようになっている、という背景が在るのです。そして、「たんに大学入試の勉強ができるだけではダメだ」「大学は内容で選べ」というメッセージは、もっともそれが向けられる意味が無いような高校生に向けられていることが多いのです。

このページに書かれた内容は、そのような状況を根本的に変革するためのものではありません。まして制度的に変革するためのものではありません。そんなことはもとより不可能です。ですが、それよりは少しましな状態にすることを目指しています。それは結局、高校生のほうで自衛する、ということです。そして、おそらく高校生のみなさんが周りの大人からあまり聞いたことの無い内容であったと思います。だからもし聞いたことのない内容であるのなら、知っておいたほうが良い内容である、というつもりで書きました。一つ一つの論点や事例の記述は、まだいくらでも検討の余地が在りますが、それは本題ではないので、ここでは書きません。

で、ここに書かれていることが現実味の無い、浮世離れした話のように感じられる環境の高校生というのも、結局は、恵まれているとされる高校生の環境からの影響を受けています。ちょうど、二周遅れの流行のようにして、影響を受けています。恵まれているとされる高校生の主流が「受験勉強さえしていれば済む」ような進学システムに適応させられているため、その教育システムの影響を結局は受けています。「都会の子はこんなに勉強しているのだ」とか「偏差値上位の子はこんなに勉強しているのだ」とかいう形でです。彼らと違うのは、「入学後に学部や専攻を選べる」というシステムがあまり無い場合が多い、ということです。その条件の違いが在るにもかかわらず、入学まで「入ってから学ぶ内容」については考えることができない、という条件だけは「恵まれた高校生」と同じにさせられています。

だから、ここに書かれた内容が浮世離れしているように思える高校生のみなさんには、「だからこそ、必要なんです」と言いたいのです。ほんとうは、ここに書かれた内容が浮世離れしているように感じられる高校生の方が、それを必要としている可能性が高いくらいなのです。というのは、今は良くても、大学に入れば、ここに書いたような内容が急激に現実のものになるからです。そのことを最後にお伝えして、この長い文を終わりたいと思います。