大卒レベルの文章を高校生が書くことが難しい事情

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高校生が大学選び・学部学科専攻選びをするためには、「大学での卒論の予行練習」のような文章を時間を大いにかけて一度書いてみることが良い。その理由は大卒レベルに近づくことが大学選びのための有効な手段だからだ。ただし、現実的にはあらゆる事情からそれは困難である。その困難のうちの一つに絞って以下指摘しておきたい。それは「事実記述と価値評価の区別」という問題圏に関係している。

中学・高校という教育機関がこの社会で果たしている役割というものを考えてみると、わかる。中学・高校というのは、「生殖可能な未成年の男女に性交をさせない」という社会的期待に最低限応えるために存在しているのも同然なのである。そして、他の役割はあくまでこの最低限の役割を果たすことを前提にしたうえでのものである。ところが、その「男女に性交をさせない」役割は表立ってはあまり語られない。したがってそのような社会空間では、大学という社会とは異なる独特の規範的傾向が存在する。その独特の規範的傾向は「事実を直視させない」ために有効であり、したがって「卒論の予行練習」を書くためには妨害となりうるのである。その傾向とは「事実を記述すること」よりも「規範的評価を下す」ことのほうがより高く評価される、というものである。

さて、この傾向は二つの面で妨害的に影響しうる。一つは「事実を直視」するよりも「望ましい状態を期待する」ことになりやすくなる、という影響である。もう一つは、「事実を記述しうる性能が低い」概念を使用しがちになる、という影響である。

事実を記述したり報告したりすることは、別に価値中立的というわけではない。喩えるならばそれは、どんな映像であっても必ず特定の視点から描かれるのと同じような事態なのであり、事実記述や事実報告もまた必ず特定の立場からなされるのということなのである。つまり、その意味で事実記述は価値中立性を前提しているわけではない。とは言え、「語る」と「示す」の区別はもちろん在る。「事実を“語る”」ことによって「価値観や評価を“示す”」ことは無論可能だし不可避でもあるが、だからといって、それと「価値観や評価を“語る”」こととは混同できない。つまり「事実を語る」ことと「評価を語る」こととは一定程度なら区別可能である。

また学者の研究というのは、事実に基づいて行なわれるにしても、まったく価値中立というわけでは無論ない。すなわち、認知的価値や認知的規範とでも呼べるような価値観には従っている。たとえば「知らないよりは知っているほうが良い」とか「新しい認識や珍しい認識や意外な認識には価値が在る」といった価値や規範に従っていることが多い。さらにまた、認知的な価値や規範以外でも、学者のほうが或る種の価値観を積極的に表明することも多い。たとえば「人類皆平等」のようなタイプのヒューマニズムに依拠し、またそれを積極的に表明もするような学術的営為は決して少なくない。この場合、「知るに値すること」という認知的な価値もそのヒューマニズムの枠内でのものになりやすい。

と、そのようにして、「事実を記述する」ことと「価値評価を下す」こととは截然と二分はできないと言える。しかし同時に、それでも「事実を記述する性能」が高い表現も在れば低い表現も在る、ということは言いうる。ちなみに同様のことは「事実記述/比喩表現」という対立項についても言える。すなわち、何が事実記述であり何が比喩表現かは完全に区別できるものではなく、程度問題ではあるが、それでも「事実を記述する性能」が高い表現も在ればそうでないものも在る、とは言いうる。たとえば、「机の脚」とか「耳を澄ます」という表現は「事実を記述する性能」が低いとは決して言えない表現であるが、だからといって「これらは比喩表現でない」と簡単に言い切れまではしないだろう。ともかくこのように、「事実を記述する」ということは、一般に、対立項と明確に区別しきれるものではないが、かと言ってその性能の高低を論じることは充分可能であるということは言えるのだ。それに比べて「事実を記述すること」を何かの対立項と対比して識別すること自体は、さほど有意義とは思えないのである。

たとえば次のようなことを考えてみても良い。「美人」という語は「事実を記述しうる性能が低い」語だろうか。いっけんすると「美人」というのは「事実を記述する」語ではなく「評価を下す」語のように思える。しかし事態はそう単純ではない。「美人」というのは「多くの人が美人であると評価を下しがちな女性のことで(は)ある」という「事実記述」に似た文でもって規定することのできる概念だとも言うこともできるからだ。このように考えると、いっけん「評価を下す」語であっても事実記述の性能が低いとは言い切れず、むしろ「多くの人がそう評価するかどうかが或る程度一致するかどうか」こそが重要であることになり、語が事実記述の語か評価判定の語であるかは必ずしも重要ではないことになる。要はその語の使い方・適用する対象や文脈の、多くの人々の間の或る程度の一致こそが重要であることになる。

それに関連して次の点も併せて押さえておくべきだろう。次の点とは、典型的には指示詞のような語の用法である。「これ」とか「あなた」という語は、「多くの人が“これ”と呼ぶもの」「多くの人が“あなた”と呼ぶもの」のことを指す語では、ない。これらはその都度の状況―たとえばそのときの送り手と受け手が誰なのか―によって、指す対象がいちいち変わるような語なのである。そのような性質は、「おいしい」といった語にもある程度あてはまる。この点は西阪仰『相互行為分析という視点』(1997)でも指摘されている。それを踏まえると次のように言えるだろう。「おいしい」の用法としては、「多くの人がおいしいと呼ぶような対象の味覚的性質」を指す用法も在る。これだけなら他のたいていの語と同じである。しかし、それと同時に、「誰が何と言おうと自分がおいしいと思うという味覚体験」を指す用法もまた在るのである。

さて一つめの、「事実を直視」するよりも「望ましい状態を期待する」ことになりやすくなる、とはこうである。たとえば次のよう。学術論文に似たような文章を書くためには、「普通なら××なのに、この場合は○○だ。どうなっているのだろう?」というような問題意識をもつと良い、と言える。というのは、そこには問うということの理由、問題を解明するということの理由が在るからだ。つまりそれは「意外な状態が成立しているから」だ。もし意外な状態が成立していないのなら、假にその理由は未知であっても論文にする理由としては弱い。未知の問いを解明することなどは当然すぎる理由でありそれだけでは論文にする理由としては弱いからだ。すなわち、未知でもあり意外な結果になっている事態だからこそ論文にする理由・研究する理由というものが在り、正当性が在るのだ。

さて、そこで「普通なら××なのに」の箇所が問題となる。ここで「学知として蓄積された真理・法則等と日常的真理および諸事実に基づいて、普通に予測すれば××なのに」ということがすんなり主張できるのなら良い。そうするとたとえば次のようになる。「普通に考えて殺人は無くならない。なぜなら殺人を望む人間が一人いれば、他の全員が殺人に反対していても、殺人は成立することが可能だからだ。ところがМという条件では殺人が起こらない。これは意外である。どのようにして殺人が起こらないという結果になっているのだろうか?」…と、こうである。ところがここで「普通なら××なのに」の箇所に事実を度外視した「希望的観測」を代入してしまう、ということが起こりうる。そうするとたとえば「普通なら殺人など好ましくないのに、殺人は無くならない。いったいなぜだろう」といった問い方になる。

同じようにして「普通なら戦争など好ましくないのに、戦争は無くならない。なぜだろう」とか「普通なら学力低下など好ましくないのに、学力低下が起こっているらしい。なぜだろう」といった問い方ができる。しかしながら、こういったタイプの問いはあまり学術的とは言えないだろう。つまり「大学選びのために高校生のうちに卒論の予行練習的な文章を書く」ときには適した問い方にあまりならないだろう。ここに在るのは「事実を直視」するよりも「望ましい状態を期待する」傾向である。そして、そのような傾向を高等学校までの教育機関は促進しやすい、ということが言えるのだ。その促進しやすさの理由は、とりわけ中学・高校といった教育機関が存在しているもっとも切実な意義から教師も関係者も目を背けており、その態度に生徒が影響されてしまうからだ、とでもまとめられるだろう。

ただし次のようなことは言える。こうだ。普通なら殺人や戦争や学力低下は放っておけば起こってもおかしくないのであり、その発生の原因を問うことに学術的意義が特に在るわけではない。がしかし、発生の仕方や経路・経緯が普通ではない、ということが在りうる。たとえば、普通の殺人はAという条件で起こりやすいのに、この殺人はAという条件とむしろ相反するBという条件で起こった、それはなぜだろう、どのようにしてだろう、という問いが立てられうる。同様に、戦争でも学力低下でも問うことができる。すなわち、普通に事実に基づいて予想・想定することのできないような、意外な戦争の起こり方や意外な学力低下の仕方が観察できるのであれば、それは学術的研究・学術論文の対象に正当な仕方でなることができるのだ。

ところで「普通なら××なのに」という箇所や、論文の最低限の要件である「解明対象が未知であること」が大学教員と高校生とで、しかるべく異なっているということも在りうることだ。たとえば学力低下について研究したいとする。そのとき、「現在高校生の学力」に関しては高校生のほうはさほど未知ではないかも知れないが、年輩の大学教員にとっては大いに未知であることが多い。それに対して「40年前の高校生の学力」に関しては高校生にとってはまったく未知であるのに対して、年輩の大学教員にとってはさほど未知ではない。そうであると、高校生が「高校生の学力の経年変化」のようなことを調査したいというときの知りたいと思う重点が、年輩の大学教員と全く異なっている、ということになりうるわけだ。つまり高校生が学力低下について調査するときにも、「自分の知りたいこと」を二の次にして「大学教員が知りたいこと」を優先してしまう可能性が大いにある。同様にして「普通なら××なのに」という箇所も、たとえば大学教員にとっての「普通なら備えているはずの学力」と、高校生にとっての「普通なら備えているはずの学力」とでは大いに異なっている可能性が在る。そのためたとえば「高校二年生のときに一学年上の全国模試を受けてトップ順位を獲得した」という事例に対して、大学教員のほうは「まあそんなことも在るよね」という態度であるのに対して、高校生のほうは非常に驚きや意外性を感じてしまうにもかかわらずその驚きを押し殺して、「なぜその当然の学力の状態から私たちの世代の学力は低下したのであろうか?」などと問うはめになってしまいかねないわけだ。

さてもう一つの「事実を記述しうる性能が低い」概念を使用しがちになる、というのは、たとえばこうである。この種の事態はきわめて多様なケースが在ると思うが、ここでは「専門家である大学の研究者」と「高校生および高校の教員」との間にギャップが生じやすいタイプの一例を挙げておく。

たとえば「知識」という語について概観する。まず、或る語が、一方では普通の人に日常的に使われてもいるが、他方では専門家によって専門用語として独自の用法で使われている…と、そういうことはいくらでも在る、と言える。「知識」という語もそうなのだが、その中でもやや特殊である。心理学者や哲学者といった専門家が「知識」という語を使うときはどちらかと言えばそれは「ほめ言葉」であるのに対して、他の多くの人々が「知識」という語を使うときはどちらかと言えばそれは「けなし言葉」である。のみならず、先の専門家が「知識」という語で指す対象と、それ以外の一般人が「知識」という語で指す対象自体も、同じ対象を指しているとは言えない。一般人は「知識」という語を、たとえば「理解」や「思考」や「洞察」と対立的に用い、「知識だけ在る」状態をどちらかと言えば否定的に評価する。そしてこの場合の「知識」というのは、人間の外にある情報化されたものを指すことが多い。それに対して、先の専門家が「知識」という語を使うときは、むしろその「理解」や「洞察」などを指すことが多いのだ。だから「知識の在る」状態をどちらかと言えば肯定的に評価する。またそこで指されている対象は、人間の外にある情報化されたものを取り込んだ後の人間の側の状態のほうである。つまり、「知識」という語は、皆が同じ対象を指しているとは限らないという点で事実を記述する性能がやや落ちるうえに、その語によって下されている「評価」も正反対でありうる、という語なのだ。

だから「知識」という語の用法をめぐっては、ある種の専門家とその他の一般人とではギャップが生じている。一般人が「知識だけ在ってもダメなんだよね」と言う時に、専門家のほうでは「いや、それって“真の知識”じゃないからさ」と思っていたりする。或いはまた、高校生や高校教員が、教科学習での「理解」や「思考」や「洞察」について知りたいと思ったときに、大学教員の書いた書籍の中で「知識」の語をタイトルやキーワードに含むような本を候補から外したりするわけだ。このようにしてギャップが現実化する。

このギャップの根源に在るのはおそらくこうだ。通常の人の「知識」概念はつまるところ、「少なくとも学校で教わることは知識である」というものだ。それに対して哲学や心理学等の云う「知識」はむしろ「少なくとも自分で獲得してその結果気づいたり血肉化したことは知識である」というものだ。だから、小学・中学・高校といった教育機関が前者のほうの用法を手放すとは思えない。「知識」という語の通常用法から「教わる」という手続きとの関連が消えることは在りえない。つまりある種の受動性が消えることは在りえない。通常用法では知識とは誰かから与えられるものであり受動的に得られるものなのだ。と同時に、学力テストでは「教わったことを機械的に書けば正解になる出題」と「それ以上の応用や活用を求める出題」という区分も在り、勤勉の大切さを教えることが学校の役割の一つである以上、前者の出題がテストから消えることは在りえない。かくして、前者の出題を解くのに必要なものが「知識」、後者の出題を解くのに必要なものは「理解」「思考」「洞察」である、といった区分が自然に作られ維持される。この区分は学力試験の分類の仕方に依存しているものなのだ。だから小中高では「知識」という語が、哲学や心理学等と同じ用法で使われることは在りえない。そして、そのような教育機関を経て、その他の学問を学んだ者もまたたいがいはその用法を成人以降も使うから、やはり哲学や心理学等の用法に従って使うことはめったに無いはずだ。だから社会全体で見たときも知識という語はやはり学校教育や試験制度と連動したような形での用法が使われ続けることになる。

これだけならまだ、「知識」という語の二つの用法が棲み分けているというだけの話だが、そこで話は終わらない。通常用法での「知識」は「理解」や「思考」或いは「常識」などの対立項として使われているのであるが、その区別自体が恣意的であるからだ。たとえばこう。「Aさんはクラシック音楽の知識があるだけなのに対して、Bさんはクラシック音楽に深い理解がある」という文を見たときに、ここでの「知識」や「理解」が「事実を記述」した語であるとシンプルに感じる者はまさかいないだろう。もし假に事実に基づいたうえでの記述であったにしても、むしろこれらの語は「評価を示した」度合いの高いものでもあるのだ。しかもこれは、たとえばクラシックの専門家なら誰がやっても同じように記述する、ということが言えるわけでもない。条件が同じような人間が記述してもそこに大いに幅や相違が在るようなものが「事実を記述しうる性能が高い」語であるとは思えないだろう。

大学生向きのものも含めた「文章の書き方」といった文章のなかで、「事実と意見・感想を書き分けよ」といったタイプの提言は頻出のものである。しかし、それを実行したらどのようになるのかを真剣に想定したうえでの提言は皆無である。上記のたんなる一例もまた、そういった提言が想定していないはずのものとして挙げた。のみならず、そういった提言での「事実」「意見」「感想」といった語にもまた、上掲のケースはおおむねそのまま妥当するのだ。ちなみに中学校あたりで行なわれている「事実と意見・感想を書き分けよ」といったタイプの教育は、しかるべき専門家のチェックの入らないトンデモ教育の温床になっている可能性が高い。そのことも付記しておく。

高等学校までの教育機関が、「事実を記述する」よりも「評価を下す」ことに重きをおいていることが、このような事情に基盤が在る。そのため「大学での研究者が書くような文章の予行練習としての卒論のような文章」を高校生のうちに書くことに対しては、高校などの教育機関はむしろ妨害的に影響しやすいと述べた。中学・高校といった教育機関の存在する大前提となっている事情から目を背け、事実を直視しない態度が教育機関全体の態度となっていることもその大きな要因である。またそれと連動していることだが、研究者のうち大学の教員になれなかった者がやむをえず高等学校までの教員になる、というルートがほとんど存在しないこともまた、その大きな要因である。高等学校までの教育内容それ自体が、大学での学問の在り方と切り離され、そのための準備期間になっているとは言い難いわけである。そしてその事を重視している人もまたきわめて稀なのである。

なお、いちいち書くのは煩雑なので今さら詳論する気は無いが「事実と意見・感想を書き分けよ」という方針を打ち出す際に、木下是雄、戸田山和久、飯間浩明の当該テーマの著作はまったく考えが足りない著作であることを付記しておく。また宇佐美寛の著作での議論の欠点(「語る」と「示す」の混同)に関しては、改良した提案をすでに上記の文章中でしておいた。

付記:飯間浩明『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(2008,ディスカヴァー・トゥエンティワン)(amazon)の読者層は戸田山和久の著作の読者層とはあまり重ならないと思うので、念のため付記する。「学生」のほうが「大学教員」よりは手に取ることがおそらく多い本であろう。だがこの本は全く無駄である。せいぜい大学教員が反面教師として使うくらいしか使い道が無い。その場合でも第一章だけで沢山である。その無駄である理由を列挙だけしておく。

以上述べておいたが、戸田山本等以上の論点はあまり無いと思う。