コメント:野矢茂樹『哲学・航海日誌』I・II

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野矢茂樹『哲学・航海日誌』I・II(中央公論新社)

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  • 現在文庫になっているバージョンではなく、単行本だったときの古い内容で以下述べる。そちらしか知らないのだ。
  • 筆者(私)にとってのこの本の第一印象でのメッセージというものは、「シンプルな道具立てで良い」というものだった。人文系の道具立てにはいろいろ在るし、国籍ごとでも異なっていたりして、道具同士の関連などもわかりにくく、何をどう位置付けて良いかが難しい(主にフランス哲学だ)。そこに颯爽とこの書が登場して、「道具立てはこのくらいでいけますよ」と教えてくれた。しかしそれにしても、「規範」とか「規則」という道具立ては、「頭が良いけど何にも知らない人」からでは絶対に出てきそうにないものだ。明らかに、先行研究や知的流行の恩恵をこの書は大きく蒙っている。
  • この本の行なっていることの多くは「或る種の常識というものを否定することで、より当たり前の普通の人の常識というものを再建する」というものになっている。だからたぶん、「さんざん書いておいてずいぶんと当たり前のことしか言ってないじゃないか」と思う読者もいる。それでよいのだ。その一方で、或る種の頭の良いとされがちな人の陥る「誤り」もまた或る意味で「常識的」である。そういう「常識」がしっかりと却下されている。どんな命題が採用され、どんな命題が却下されたのかを、読後しっかり押さえておかないと、ぼやっとしたまま「いい本だったなあ」或いは反対に「当たり前じゃないか、馬鹿じゃないの」で終わりかねない。
  • この本で却下され代案が提出された主な「常識」というのは、たとえば「実物のリンゴが原因となって、それが視神経を通して脳に到達して、それによってリンゴの像のような体験が視覚として生じる」とか、「他人の痛みを理解することは、先立って先ず私の痛みを理解してそこから類推するというふうに行なっている」とか、「1メートルが100センチであることを知っていれば、そこから論理的に、2.5メートルが250センチであることは導くことができ、そのことを論理的に根拠づけることもできる」とか、「私の腕が上がるのは、“腕を上げよう”という私の意志・意図が原因となってである」とか、「相手の発言というものを理解するための言語運用上の規則が存在する」とか、そういったあたりである。こういった「或る種の頭の良い」人の「常識」を、かなり周到に準備された精緻な議論によって、別の「常識」に置き換えていく、そういう議論の書である。結論として出される別の「常識」も当然のことながら或る意味では常識的なので、それだけ見ると「何のために長々と議論をしたのだろう」という観を抱くかもしれないものだ。
  • この書を理解するためには、この書が「どんな問題を扱っていないか」を知るのも一法である。この書が扱っていないのは、私のみるところ、次のような問題である。たとえば、家野さんと矢野さんとが並んで富士山を見ていたとする。家野さんが「今日は富士がきれいに見えるね」と言ったとする。このようなとき、春秋社版だとp286の「コミュニケーションという行為」で著者が述べていることによれば言うまでもなく、コミュニケーションとは相手あってのものである。それは相手の反応を求めている。四角張った言い方をすれば、私は、相手からしかるべき反応を引き出すことを意図してそう行為しているのである。とのことだが、その「しかるべき反応」というものが、上記の富士山の発話ならばどのようなものになるのだろうか、これがこの書で扱っていない話題である。「今日は富士がきれいに見えるね」の場合、「ね」という終助詞もあることなので、ここで「賛否の表明」というものを家野さんは矢野さんに求めているだろう、と言えるのかもしれない。が、もし「今日は富士がきれいに見える」とだけ述べた場合は、どうだろうか。この場合でも「しかるべき反応」が求められているだろうか。私の印象では「どちらかといえば求められている」のほうに近い。だが、「絶対に」というほどではない、ともいえる。家野さんが「今日は富士がきれいに見える」と述べたあと、1.5秒ほどの間隔をおいて、矢野さんが「あ、ああ」などと述べた場合、その1.5秒という間隔は「誰の沈黙なのか」といった問題も考えうるわけだが、それはこの書の分担ではない。社会学や言語学の会話分析等で扱う問題になる。また、この種の問題を扱い損ねた事例を論じたものとしては「コミュニケーション可能場面における、話者の発話自体への応接という要素:飯野勝己著『言語行為と発話解釈』への補足修正の提案」がある。さらに、反対にこの種の問題を萌芽的に提示した書に言及した「幼児の言語獲得の、汎用性の高いモデル―清水哲郎の著作『医療現場II』に依拠して」という文章も書いている。
  • 野矢のこの著書は、「問題提起とその解決のための議論」を学ぶためにとても良い本だと言いたいところだが、扱っている問題が少し難しすぎる。常識的な見解を論駁し別の常識を代案として立てるということが、こうも難しくなってしまうものだ、ということの見本だとも言える。大変に読みやすい文章と整理された内容ではあるが、だからといって決して気楽に「読んでよくわかった」と言えるような著作であるとまでは言えない。読みやすさと分かりやすさとは違う事柄なのだ。