ふくしま式「語彙200」の問題点

Header of This Document


はじめに

『思考力アップに不可欠! ふくしま式 小学生が最初に身につけたい語彙200』(福嶋隆史、2019、大和出版)という教材が書店に並んでいた。一通り眺めてみて教材として良いものだと思った。しかし、よくよく読んでみるとこの教材は「小学校1年~4年」程度を想定して執筆したとあり、これを読んで私は考えを少し変えた。「小学校1年~4年」を想定して、「身につけたい語彙集」を作ることにはかなりの無理があると思ったからだ。

小学校1年~4年という対象年齢の無理

この対象年齢は、中学受験から逆算したものに違いない。中学受験準備が遅くとも小学校5年生からスタートするので、それに備えておく教材に需要というものがあるのだろう。その需要が先行してこの教材の存在がある。だが、語彙の習得というものは、「幼保育期」と「小学校1~4年」というふうに分割したうえで、後者を一挙に扱えばいいというものではない。ついでに言えば、私はこの教材を一通り読んでみたとき、「小学校1年生」は対象学習者としてほとんど想定されていないように感じた。大まかに言って、「小学校3年生以上」を想定しているように感じた。さて子どもの語彙習得に関しては学術的にはあまり多くのことが明らかになっていないと思うので、私がまず独力で考えてみよう。

「耳をすます」という語句の習得を考えてみよう。文字通りに考えれば「耳をすます」というのは「耳を掃除すること」などを意味するようにも思えるが、実際にはこれは慣用句であって「聴覚に集中する」ことを意味する。しかし、このような思考プロセスを踏んで「耳をすます」といいう語句を習得した人はたぶんほとんどいない。「澄ます」という語句を知るようになるのが、小学校の低学年や中学年などではないからである。小学校の低学年で「耳をすます」とか「おすまし」「すまし汁」とかそういう語句を知っている生徒がいたとしても、それらは個々独立に知られているのであり、「澄ます」という語と関連付けられて知られているわけでは、まずない。さて、このようなことが起こるのは、「澄ます」という語が使用頻度も高くなく、また、知るようになる学齢も高めだからである。「澄んだ空気」などという言いまわしはおそらく小学校高学年以上のものだろう。そして、その時期を通過したのちも、「耳をすます」は字義通りの意味で「聴覚に集中する」と言ってよい状態が続くのである。「比喩」であると考える必要はあまりないのだ。

これと全く異なるだろう経路で習得されるのが、たとえば「のどから手が出る」のような語句である。これが字義通り「のどから手が出る」ほどに欲しい、などと受け取る生徒はまずいない。必ず「慣用句」であると受け取るはずである。そして「のど」「手」「出る」などの語もすべて既知であるため、「のどから手が出るほどに欲しい。」という文の文意は「非常に欲しくてたまらない。」というものだ、と理解することができる。つまり、「のどから手が出る」という滑稽な事態をイメージしながらあくまで慣用句として理解することができる。そののちになら、「のどから手が出る」の「字義通りの意味」として「欲しくてたまらないようす」などというふうに捉えるようにもなる。だが、ともかくその前段階として「のどから手が出る」という絵やイメージなどを媒介にしていた段階があったはずなのだ。

「耳をすます」の場合は、「澄ます」「澄んでいる」などの語が高学年以上のものであるために、「耳をすます」とは最初から字義通り「聴覚に集中する」という意だ、というふうに、棒暗記することになる。それに対して、「のどから手が出るほど欲しい」の場合は、「のど」 「手」「出る」「欲しい」などすべてが既知になってから初めて接することが多いため、「欲しくてたまらない様子」などというふうに棒暗記する前段階として、「のどから手が出る」絵やイメージを媒介としやすくなる。

或る語句を知っていることが前提となって別の語句を知るという場合、その前提となっている語句を知らないと、別の語句を知るときにもほとんど棒暗記になってしまう。それに対して、前提となっている語句を知っている場合には、もう少し自然に別の語句を知ることができるようになる。「小学校1年~4年」という対象年齢を相手に一挙に語彙集を作るということが無茶な理由は、そのタイプの前提となっている語句の知識に、1年生と4年生とでは幅がありすぎるからである(1年生のなかだけでもだいぶ幅があるだろう)。

小学校1年~4年の間には、段階がある

「小学校1年~4年の間には、段階がある」ということを述べてみたい。つまりこの段階での語彙習得には、二段階くらいは段階というものがあって、前の段階をクリアしていないうちに次の段階には進めないような、そういう構造になっていると思うのだ。この教材のなかにも、それが指摘できる箇所がある。たとえば、p24「長い・短い 上・下」の項目に掲載されている例文に、それが指摘可能である。7「高い山もあれば、低い山もある。」と、8「気温が高い日もあれば、気温の低い日もある。」、9「高い声の人もいれば、低い声の人もいる。」とでは、「同じ段階にはない」と言いたくなる。明らかにまず7のような例文で山が「高い」「低い」を学習して定着したあとに、あらためて、8や9で「気温」「声」が「高い」「低い」を学習するというそういう二段階学習になっているだろう、と思えるのだ。この二つの段階を一回で済ますということは、おそらくできない。そして10「価値の高い本もあれば、価値の低い本もある。」ともなると、そもそも小学4年生対象の例文かどうかも疑わしい。温度計で見たり皮膚で感じたりできる「気温」や耳で聞けばわかる「声」と、「価値」とは同列には扱えないだろうからだ。

ここで重要なのは、「高い山」という表現は「字義通り」に感じることができるが、「高い温度」「高い声」はすぐには字義通りだとは感じられず、一種の比喩表現のようにして理解する段階が必要なのではないか、ということだ。そして、たとえば板付温度計なり楽譜なりでの「高低」というものを足がかりとして、「これらもまた“高い”“低い”と呼んでよい」ということを習得することだ。この場合、「高い温度」「高い声」などが「比喩」と感じられず「字義通り」と感じられるようになることで、学習が完了するというわけだ。

今しがた「高い/低い」の学習に三段階があることを述べたが、実際にこの三段階をすべて例文化している箇所は他にほとんどない。たとえば同じページの4「六年生は上の階、一年生は下の階に教室がある。」は「高い山」と同じようにして習得できるが、5「六年生は立場が上、一年生は立場が下だ。」となると、「高い価値」のほうの段階になり、中間的な段階をすっ飛ばしていることになるだろう。「立場」というものは、「価値」と同様に、知覚しやすい対象とは言い難いからだ。「前回のテストの点数はクラスでも上のほうだったが、今回は下のほうになってしまった。」などの中間的な段階の例文も望まれるとこだろう。

同様の段階構造は、たとえばp20「内・外 表・裏」にも例文が見られる。3「コップを洗うときは、内側だけでなく外側も忘れずに洗おう。」は「高い山」と同じようにして習得できると思うが、4「仲よしグループの内側だけでなく、外側ともつながりを持つようにしよう。」は、「高い温度」のようにして習得することは難しい。「高い価値」の段階に近いものになってしまうだろう。「仲よしグループ」の語は指導者がいれば可視化可能・習得可能だと思うが、最後に「つながりを持つ」という難しい表現が控えているからだ。この「持つ」は、「カバンを持つ」などの「持つ」とは明らかに次元が異なる。一種の比喩表現のようなものとして習得・理解するしか生徒はできないだろう。「つながり」という語も「手をつなぐ」などの表現を足がかりにして理解するしかないようにも思う。

結局、この教材は、おそらく「幼保段階」ですでに身につけていると思われる語に関しては、習得に際して「切って捨てる」ようにして作られているのがベースなのだ。たとえばp65「パート4 五感の観点」の導入箇所では福嶋は次のように述べている。

☆「あの子は明るい子だ」と言ったとき、その子どもが実際に光ってまぶしい状態だと思う人はいません。「明るい」は「比喩」だということです。(後略)

この箇所からも見当がつくとおり、この教材はそもそも「明るい」という語を知らない生徒は、対象外なのである。「夜道が暗いので、明るくなるように懐中電灯で照らした。」などといった例文はこの教材には無い。あるのは「性格が明るい」「場の空気を明るくしようと」「横浜の地理には明るい」といった例文であった。この教材でのみ学習すると何が欠落するのかがここにあらわになっていると言えよう。他の「明るい」相応の語彙もだいたい似たような扱いだからで、先の「高い山」「上の階」のほうが例外だったのである。「小学校1年生」は対象学習者として対象外であるように私が感じたゆえんである。

この点が指摘可能な箇所は他にもいくつかあったと思うが、たとえば、p20「舞台裏を取材しました」、p74「渋い顔」などが挙げられる。

この話題に関しては、筆者がすでに書いた「「慣用表現」の日本語力:コボちゃん作文の「指導者」に必要な認識」の最初のほうの「「それが慣用表現であると認識されにくい」表現こそが「慣用表現」の典型である」の節なども関連しているので、併せて読まれることを希望している。こちらの文章では慣用表現を学習途上である子どものことはあまり想定せずに書いたので、今回のこの文章でそれを補った形となる。

語を典型的な表現から学習する際の留意点:慣用句の存在

私は他の文章でも書いているが、語彙の学習は典型的な用例から始めるのが良いという原則を支持している。その点を指摘したものに、たとえば野矢茂樹『哲学・航海日誌』(春秋社,1999または中央公論新社,2010)がある。特に「常識という神話」という文章がこの件に直接関係している。春秋社版でp349-351から引用するが、基本的にはこの文章の全体がその話題である。

大人が子供に言葉を教える場面を考えてみよう。例えば、「犬」という語を教えようとしてみる。どうするだろうか。

前章で論じたように、語は部品にすぎない。そこで大人は、その部品(「犬」)を用いた道具=文をさまざまに使ってみせるだろう。例えば、「犬がいるね」「ほら、犬が寝ている」「いま隣の犬が吠えた」「その犬はこわくないよ。なでてごらん」、等々。ただし教育の初期の場面では、大人はあくまでも標準的使用を示さねばならない。ノコギリの使い方を教えるのに、いきなりそれを楽器として演奏してみせる大人はいないだろう。教育用の発話は、少なくとも最初の内は嘘であってはならないし、あからさまに偽であってもならない。あるいは嫌味や比喩であってもならない。ごく素直に、正直に、かつ適切に、描写し、命令し、問いかけるのではければならない。

そうした教育上の制約のひとつとして、私は、一見さして重要とも思えないかもしれないことを指摘したい。それはこうである。

いかにも犬らしい犬を話題にせよ。

子供に「犬」という語を教えるとき、あまり犬らしくない犬でもって教えようとはしない。例えば、夏に暑さ負けしないようにその胴体の毛を刈ってしまったチャウチャウ。その情けないライオンのような姿にもかかわらず、それは確かに「犬」であり、「犬」以外の何ものでもない。しかし、「犬」という語を教えるときにはもっと個性的でない犬を話題にしたほうがよい。あるいは、何かのかげんで尻尾の先が二本に分かれているような犬。あるいはまた、ニャンと鳴く犬を話題にすることも避けた方がよい。さらには、警官を指差して「犬」という語を教えようなどはもってのほかである。

「犬」という語を外延的に規定するならば、「……は犬である」を真にするような対象を指定することによって規定されると考えられるだろう。いわば、犬の集合である。だが、日常語の「犬」はたんなるのっぺりした集合ではない。そこには「犬らしさ」という構造が導入されねばならないのである。

まず、順当に犬らしい犬、すなわち犬のプロトタイプから始め、しかるのちに、多少変わった犬について「あれ犬なのだ」と教えていく。そこにおいて子供は、たんに何が「犬」と呼ばれうるのかを学ぶだけではなく、どういうのが「ふつうの犬」であり、どういうのが「変な犬」なのかも学ぶのでなければならない。ある概念の習得において、何がその概念のもとに落ちるのかを学ぶだけでなく、そこにおいて「ふつう」と「変」という評価軸を正しく設定することも要求されるのである。(いわゆる「充足」(satisfaction)は「ふつうの充足」と「変な充足」という下位区分をもつことになる。)

これは、たんに統計的な事実ではない。すなわち、犬の集合において多数派と少数派をただ数において区別するようなことではない。「ふつう-変」という評価は、それが「何として」捉えられているかに依存している。例えば、ある人物について「市民としては変な人だが、哲学者としてはふつうだ」のように言われるかもしれないように。つまり、「ふつう-変」という評価は、アスペクト依存的なのであり、たんに外延的な数量の評価ではなく、内包的性格を有しているのである。

そこで、外延的にはまったく同じ了解をしながら、「ふつう-変」の評価が異なるために、異なる概念を習得していると言わざるをえないようなケースも出てくることになる。実際に、尻尾の先が二本に分かれている犬に対して、「どうだい、いかにも犬らしい犬じゃないか」と言う人がいたとしたら、その人は私と異なる「犬」概念をもっていると言うべきだろう。

このような野矢の提案に筆者は反対する理由をまったくもたない。と私は他の箇所でも書いている。ところで、場合によっては、語彙の用法が典型的であるのとは別に、慣用表現として典型的であるものが存在している場合というのがある。このような場合どうすれば良いだろうか。

福嶋の教材のp94に掲載されている「身内に不幸がありました。」という例文がまさにこのケースに該当する。ここでは「不幸」に線が引かれており、この語が学習ワードであることが明示されている。この表現は一種の慣用句であり、「不幸」ということで特定のタイプのもの(「死亡」)だけを指示している表現だ。他方、この教材には、他に「不幸」を用いた例文は登場しない。つまり、「身内に不幸がありました。」という文で最初に「不幸」という語を学習してしまう生徒が出てくるはずだ、ということになる。この事態は私はあまり軽視して良いものではないように思える。「不幸」と見聞きしたときに「誰かが死んだ」ことを指していると即断するようになってしまうからだ。福嶋はこの教材のこの箇所にもう一つ、慣用句ではなく「不幸」が使用されているような例文を入れるべきであったと思う。「結婚して幸福になる人もいれば、不幸になる人もいる。」などのような例文である。

「重み」と「重さ」

福嶋が保護者・指導者向けに書いた次の箇所に誤りがあると思ったので、この点も指摘はしておこう。p6。

(問い)「重み」と「重さ」はどう違うのか ?

「えーっと、重みは気分的な感じ。重さは計測できる感じ?」

なかなかよいのですが、すっきりしません。

そこで「自他の観点」を意識的に活用します。

「重みは、主観(自分中心の見方)。重さは、客観(多くの他人が納得する見方)」(例外もあります)

なるほど、「校長先生の言葉には重みがあった」とは言えても、「校長先生の言葉には重さがあった」とは言えないのは、感じ方は人それぞれだからでしょう。計測できるような客観的なものではないわけです。これで、だいぶすっきりしました。

ここでは物理学的な重量に関係する「重さ」「重み」と、重要性に関係するいわば比喩的な「重さ」「重み」との用法とが混同されている。やるならまず「罪の重さ」と「罪の重み」や「責任の重さ」と「責任の重み」との比較をおこなってみるべきだろう。「責任の重さ」が計測できるようなタイプのものとは思われない。「罪の重さ」だと刑法などに照らして或る程度量的に把握することも可能なように思われる(つまり「罪」の意味が法的なものに絞られる)。このくらいのことをあらかじめ準備考察してから臨むのが良いのではないか。なお「校長先生の言葉には重さがあった」とは言わないが、他方「校長先生の言葉には重々しさがあった」なら言いうる。こういったことも考慮に入れてから、上記の「問い」を考えても良いのではないだろうか。

その他雑記

この著書の「七つの観点」というのが正直よくわからなかった。たとえば「ブルー」という語は「五感」の章に含まれるがその例文での語意は「心理」に含まれるような内容である。或いは「発端」という語が「時間/空間」に含まれないのもよくわからない。この分類は未完成のものであり、また字義通りの文と比喩的な文とを混在させるときにはあまり役に立たないのではないかと、思った。無いよりは有ったほうが良いが、再考の余地がある。

重ねて言うが、教材として使うのなら推薦できる。ただ対象年齢は小学校中学年以上程度が良いだろう。幼稚園を卒園して小学校に入学したばかりの生徒が取り組む教材ではない。