半側評価語の見分け方とその意義

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はじめに

半側評価語というのは筆者の独自概念であるが、そのヒントとなったのは伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(2005,筑摩書房)で言及されていた「二次的評価語」という概念であった。今この本が手許にないのであやふやなまま説明すると、確か「差別的」とか「非民主的」といった語がその二次的評価語の例として挙げられていた。これらはいっけん事実を表すように見えて評価を下すという、そういう語の例として挙げられていた。ただ伊勢田はこの種の語に関してこれ以上深入りはしていなかった。なので、この件に関しては筆者が引き受けていきたい。で、これらの評価語が一見事実を表すように見えるかどうかはともかくとして、事実を述べるような時と同様の断定性をもつとは言えるだろう。他人と会話していて、相手の発言がこの種の形容詞で塗り固められると、それ以上議論が進まなくなり、「要するに相手に賛成するか反対するか」の次元の会話になってしまいがちだ。と少なくとも筆者は以前から感じてはいた。おそらくこの件に気づいている人はけっこう少なくなく、また、論じた書籍も在るようだ。だが、現在筆者はそれらを直接知らないので、知らないまま独自研究として書くことにする。

半側評価語のわかりやすい事例として、「野矢茂樹『大人のための国語ゼミ』に「ちょっと待った!」をかけてみる:二つの半側評価語の鬩ぎ合い:「事実」と「考える」」の冒頭で説明してみた。

日本語力・国語力を上げていこうとする小中高生はこれらの半側評価語を片端から習得していくのが良いかとも最初筆者は思ったが、あまりにも多すぎるしきりが無いし、いやでも覚える。また、境界的なもの・中間的なものもある。なので、小中高生が語彙を習得していくときには、むしろその「見分け方」をまず知っておくのが良いのではないかと、思い直した。小中高生がという以前に、まず彼らに教える側のほうがこの程度の事を踏まえていないと話にならないとも言えるだろう。

評価語のなかには、より評価語らしい品詞というものが在るようにも思う。今までの例からも言えるように、形容詞には半側評価語になりやすいものが多そうだ。形容詞は典型的な品詞であると言える。それは形容詞が直接に形容する品詞だからだろう。「良い」も「悪い」も形容詞だ。ひとまず形容詞を半側評価語の典型として設定しておくのは悪くないと思う。

形容詞が評価語の典型に来やすい理由のいま一つの候補として「ない」がそもそも形容詞だから、という事情も在るかもしれない。周知のとおり、「ある」は動詞だが、「ない」は形容詞だ。半側評価語は、「何か」と「その否定」というペアで把握されるものなので、「否定」である「ない」が絡むと形容詞化しやすいのかもしれない。

半側形容詞の見つけ方

「論理的な」という形容詞で考えてみよう。これが半側形容詞である度合いはどのようにしてわかるのであろうか。「論理的すぎる」というふうに、「すぎる」をつけてみる。そうしたとき、「論理的すぎる」は違和感がけっこう強い言い方だ。あまり見聞したことも無いに違いない。これは「論理的な」という形容詞が半側形容詞、一方的に「良い」「望ましい」状態を形容することからきている。だから、いくら論理的であっても良い、論理的すぎて困ることなど無い、というわけだ。というか、そういうときには、「論理的」という語を回避して「詭弁だ」とか「理屈っぽいだけだ」とか「空理空論だ」などと別の語をつかって否定的に評価するのだ。「論理的な」は否定的な用法から免れている度合いがごく高い。ほとんど一方的に肯定的に評価する場面でのみ使う語なのだ。

もう一つ、調べる方法がある。「もっと論理的にしよう」というふうに、「もっと~しよう」などとつけてみるのだ。「もっと論理的にしよう」という言い方には、違和感は全く無いだろう。むしろ現実にもよく言われている言い方であるに違いない。だとすると、これは一方的に「良い」「望ましい」状態を形容する度合いが高いということになる。

他の事例も少し試してみよう。たとえばリンク先で用いた「感動的な」という形容詞で考えてみよう。すると「感動的すぎる」という言い方には違和感が強いことがわかる。また、「もっと感動的にしよう」という言い方には違和感が特に無いことがわかる。「具体的な」でも試してみよう。「具体的すぎる」…あんまり聞かない気がする言い方である。その一方で「もっと具体的にしよう」という言い方には違和感が特に無い。なので、「具体的な」もまた「半側形容詞」である度合いは高いといって良さそうだ。

もう少し判断が難しいケースもとりあげてみよう。「美人な」で考えてみる。ところが「美人すぎる」という言い方は、昔だったら違和感が強かっただろうが、現在だとそこまでではない。たとえば政治家が美人だから当選するなどのような事態は好ましくないことだろう。他にもそういったケースはいろいろ在りそうだ。「美人な」ことは無条件でどんな場合でも望ましい特質というわけではないようだ。そういうことから「美人すぎる」という言い方には、違和感が少し弱まった形で聞こえるだろう。「もっと美人にしよう」「もっと美人であろう」などという言い方も、通常の言い方なのかどうなのかよくわからないところが在る。強い違和感が無い、という程度だ。「次の主演女優はもっと美人にしよう」などという限定的におかしくない使い方なら浮かぶから、そこまで異常な言い方ではない。そのくらいだろうか。「美人な」という形容詞は、半側評価語としてはややその度合いが弱いタイプのものだと言えそうだ。

反対に、一方的に「悪い」「望ましくない」事例も検討しておこう。リンク先でも挙げた「感情的な」をとりあげてみる。「感情的すぎる」という言い方には違和感が特に無い。反対に、「もっと感情的に」という言い方はできないわけではないが、その場合はたとえば映画の演技指導などで「感情的であること」が望ましい状態になっている場合など、やや特殊なケースだろう。通常は「もっと感情的になろう」などとは言わないのである(そういうときは「情感」や「情緒」など別の語を用いて言うのである)。「感情的な」はたいがいの場合は半側評価語として機能していると判断できそうだ。

ちゃんとした日本語の単語として扱えるかわからないが「非論理的な」もためしてみよう。「非論理的すぎる」という言い方はおかしくはない。ただ通常は「非論理的な」という言い方単独で充分強いため、「すぎる」をつける必要がめったに無い、ということであるだろう。その一方で「もっと非論理的になろう」などという言い方は違和感しか無いほどであり、まずしない言い方である。そういうことを言いたいときには、別の語を使って「もっと柔軟に考えよう」とか「もっと直感的にいこう」などと言うだろう。

これらよりもはるかに厄介な、そもそも半側評価語として扱いうるのか難しい語も在る。「抽象的な」がそれだ。ただ、抽象を捨象とペアで用いていない人が用いる「抽象的な」はたいがいは、少し否定的に「望ましくなさ」「わかりにくさ」を表す場合が多い。しかし例外的に、「抽象的な」を望ましいものとして用いたり、価値中立的に用いるケースも無いではない。そういう微妙な語でためしてみよう。「抽象的すぎる」という言い方はどうだろう。日常的にけっこう聞く言い方のような気がする。この場合は「ダメ出し」であり、強くはないかもしれないが「わかりにくい」と否定する言い方ではある。対して「もっと抽象的であろう/になろう」などという言い方は、違和感が在る。その種のことを言いたい場合は「もっと抽象度を上げよう」などというふうに、「抽象的」という「的」のついた言い方は避けるように思えるのだ。「抽象的」は、半側評価語として否定的に用いる用法が、人びとの用法の中で一定以上の割合で成立しているが、しかしそうでない場合も在る、というふうにまとめるほかないだろう。

ともあれ、上記のようにして「すぎる」「もっと~にしよう」などの言い方を試してみることで、その語の半側評価語としての性能や習性がわかるようになるのである。

どういう形容詞なら半側評価語にならないか、ということを少し考えてみるのも悪くない。色名の多くはそうだろう。「白い」「黒い」の二つは少し例外かもしれないが、「赤い」「青い」「黄色い」などの形容詞は半側評価語にはなりにくい。もしなるとしたら、その色の慣習的にもつイメージに依拠した場合だけだろう(「赤い→共産主義」など)。物理的・化学的な状態を表すような理科的な場面での形容詞も、半側評価語になりにくいだろう。これらはむしろ評価語という以上に「事実」を表すからだ。特に数値化しやすく単位をもつもの、「長い」「速い」などのようなものは半側評価語になり難いように思う。

味覚をあらわす「甘い」も半側評価語にはならない。まず「甘すぎる」という言い方はおかしくなく、通常普通に使われる。対して「もっと甘くして」という言い方もまた調理の場面などで可能であり、不自然ではない。なので、「甘い」は半側評価語ではない、ことがわかる。おそらく、糖分量など客観的に測定可能なものと関連した語だからだろう。

名詞・動詞にはどのように適用されるか

名詞・動詞でも同様の半側評価語を想定することはできるだろうか。まず名詞を少し検討してみる。「論理」「感動」「具体」などは、良い意味合いでしか用いないように思える。ただ、形容詞のときほどに強くはないだろう。悪い意味合いで使うことはあまりない、というくらいに押さえておくくらいが無難かもしれない。それよりも、名詞は、社会的な話題のなかに、半側評価語的なものが頻発することに注目したい。たとえば、「戦争」とか「恐慌」とかあるいは反対に「平和」とか「好況」のように、良い意味合いなのか悪い意味合いなのかが、ほぼ機械的に決定できてしまう語が多いのだ。その一方で、そうではないカテゴリーも在る。たとえば「抗戦」とか「無視」のように、誰が誰にどういう状況で行なうかによって評価語の方向が変わってくるものも在る。これらは半側評価語とは言いづらい。或いは「秀才」や「陽気」のように、状況次第で評価語としての性質が相当に変わってくることがあらかじめわかるようなものも、半側評価語とは言いづらい。そういうことは言えると思う。

名詞には見分け方には安易な方法があると思う。たとえば「悪い平和」という言い方には違和感が一定以上在るが、「良い平和」という言い方には違和感が無い。この場合「平和」という語はかなり以上の程度で半側評価語なのだと言える。ただし「悪い平和」という言い方が全く意味不明ということはなく、時には言われうるものなので、そのくらいには例外も在る、と見なせば良い。反対に「戦争」で試しても良い。「悪い戦争」という言い方は当たり前にしか聞こえないが、「良い戦争」という言い方は特殊な場合にしか使わないな、というふうに聞こえる(そしてその場合「戦争」とは呼ばずに「聖戦」と呼んだり「抗戦」と呼んだりする)。なので、「戦争」は或る程度以上は半側評価語としての性質を有する、と見なせば良い。「論理」の場合は、どうか。「素晴らしい論理」という言い方には違和感が無い。他方、「ダメな論理」という言い方も理解可能だ。「その論理と称するものはダメだ」ということなのだ。なので、「論理」という名詞は、そこまで半側評価語としての性質は有さない、と見なすことができる。それに対して、「感動」の場合、「素晴らしい感動」という言い方は違和感が無いが、「ダメな感動」という言い方は理解しづらい。そういう言い方自体見聞きすることがめったに無い。なので、「感動」は「論理」に比べれば半側評価語としての性質を有すると見なすことができるだろう。

動詞の場合はどうか。たとえば「思考する」は私の感じではかなり典型的な半側評価語のようにも思える。「思考」という名詞形も或る程度半側評価語だった。「素晴らしい思考」という言い方はできるが、「ダメな思考」という言い方は少しできにくい。それなら「ダメならばそれは思考とは言えないだろう」というふうになりやすいと思うのだ。動詞の場合は、形容詞と似たようなやり方で試してみる。「思考しすぎる」という言い方には違和感がある。「思考にしすぎなんてない」と感じられるからだ(そういうときは「考えすぎる」という別の語を使うだろう)。その一方で「もっと思考しよう」といった言い方には全く違和感が無い。きっとあちこちで実際に言われていることだろう。なので、「思考する」は形容詞のときのやり方とほぼ同じようにして、半側評価語であることがわかる。「感動する」の場合はどうか。「感動しすぎる」という言い方には違和感が在る。「感動にしすぎなんてない」と感じられるからだ。その一方で「もっと感動しよう」といった言い方には違和感がとりたてて無い。そういう言い方をする状況は限られるだろうが、言い回しとして違和感が無いのだ。そういうわけで「感動する」も半側評価語であると見なすことができる。反対方向のものもためしてみる。たとえば「暗記する」は中立的にも用いられうるが、否定的に評価するときに使われることがとにかく多い。「暗記しすぎる」という言い方は一発で理解できる。暗記について否定的に言及しているのだ。反対に「もっと暗記しよう」という言い方もまた理解できるし、場面によって使いうる表現だ。そのことが、先に挙げたように否定的に評価することがとにかく多いが、中立的に使うことも可能である、という事情に表れたと思う。「暗記する」が否定的に使われるのは、「暗記じゃなく対処すべき場面」でになるだろう。思考したり理解したりするときにまで「暗記」をすべきではない、と、しかしそうではなく暗記するしかない場合も在り、その場合はもっと暗記しようとも言いうる、とそういうことだと思う。動詞としては少し不自然かもしれないが「感情的になる」という動詞を想定することは可能だろう。この場合どうか。「感情的になりすぎる」という言い方はまったく違和感が無い。他方、「もっと感情的になれ」という言い方は、形容詞の時と同様、映画や演劇での指導など特殊な場合を除いて、通常使われない。なので、通常の場合なら「感情的になる」は半側評価動詞なのだと見なすことができる。

社会的な文章での動詞も少し試しておく。「戦争する」ならば「戦争しすぎる」という言い方に違和感はほぼ無いし、「もっと戦争しよう」という言い方は「変な人・特殊な状況の発言」にしか聞こえない。そういうわけで「戦争する」は半側評価動詞だと見なしても良さそうだ。「救済する」ならば、「救済しすぎる」という言い方には違和感を覚えるし、「もっと救済しよう」という言い方には全く違和感は無い。そういうわけで「救済する」も逆方向での半側評価動詞だと言って良さそうだ。社会的な文章に頻発するだろう、半側評価語のチェックもこのやり方で行ける。

半側評価語というものを持ち出す意義

上記の例からもわかるように、半側評価語を持ち出したところで、「事実と意見の区別」といったものができるようになるわけではない。「戦争が起きた。」という言い方は確かに事態を否定的に評価している場合も多いが、それ以上に何らかの事実を表現した言い方だ。評価を下しながら事実を述べることは充分可能なのだ。戦争や経済や歴史などの表現に半側評価語がどうも多そうだということからも、それはわかる。その一方で、半側評価語を用いることで、事実や各論から遠ざかり、態度表明ばかりの中身の薄い文章になりやすいという面が在ることも少なくない。教育論議のなかでの半側評価語の中身の薄さや不正確さには、時に目に余るものが在る。「暗記ばかりしないで、もっと理解しろ」という言い方をするとき、生徒のほうは一生懸命理解しようとしているのだが、教育側からはそれがすべて暗記に思えてしまう、というようなタイプの事態はごく多いだろう。こういうときに、思考とか理解とか論理とかいう語を無反省に、独善的に振り回しても、単に「見栄えの良い、凡庸な教育産業の広告」が出来上がるだけであり、それ以上の中身は無い。

ところで、教育談義のなかで扱いの難しい語を、一つ今まで避けてきた。「批判的な」という形容詞や、派生する名詞などだ。「批判的にすぎる」という言い方は容易に理解できるのに対して、「もっと批判的になれ」という言い方もまた、決して無理のあるものではない。あまり聞き慣れはしないが、言わんとすることはわからないでもないのだ。「もっと批判的になれ」という場合、たとえばサヨクが生徒に「保守の言論に対して批判的になれ」ということを言っているのかもしれないし、保守陣営の者が生徒に「サヨクの言論に対して批判的になれ」ということを言っているのかもしれない。いずれにせよ、21世紀初頭頃の「批判的思考」などの「ブーム」が、その実態は上記の二つのどちらかであった、ということは大いに在りうることだ。「批判的な」はこの文脈での場合、上でも示したように半側評価語ではない。単に形容しているに過ぎない語だ。と同時に、しばしば「自分の陣営」を無条件に良いものとしたうえでの評価語でもある。その場合、サヨクからみれば保守の批判こそが批判的であるということになろうし、保守の陣営からみればサヨクの批判こそが批判的であるということになろう。むろん、それ以外の可能性だって在る。厄介なことに、教育談義を離れて、日常を見回してみると、「批判的な」は立派な半側評価語である。「批判的すぎる」という言い方は容易に理解できる言い方だし、「もっと批判的になれ」という言い方は無理の在る言い方だからだ。どうしてもというときは違う言い方をするだろう(「もっと厳しくチェックせよ」など)。教育談義の中での「批判的な」も錯綜している一方、日常語としての「批判的な」はかなりはっきりとした半側評価語である。このことが、「批判的な」という語の理解をややこしくし、ひいては教育談義の実態も見えにくいものになっていた。

しかし、教育談義から「批判的な」といったややこしい語さえ取り除けば、その実態は「半側評価語の氾濫」だったに過ぎない、と言えるだろう。空疎な形容詞や、どうとでも使える概念語で、それぞれがそれぞれの都合の良いことを言っていたに過ぎないのである。

筆者にとっては、この話題は「事実と意見を区別せよ」といった話題圏内から発生してきたものであった。だが、そこから独自に発展させてみると、実は「事実と意見の区別」という話からは遠ざかっていくことがわかる。事実を表しながら同時に評価を含み込んだ文章は、社会政治経済歴史などのなかには頻発する。そういうわけで、半側評価語という独自概念を持ち出したことで、「事実と意見の区別」という話からは遠ざかっていく。しかしだからと言って意義が無いわけではないと思う。少なくとも教育談義の中で使われがちな或る種の語に対して、今一度冷めた目で見直すことができるようになる。「単なる暗記だけではなく思考が大事」というとき、その暗記しているものが、その前段階の教育課程では「思考」とされているものだったかもしれない。なので、小中高大そして社会人となっていくときに、どの段階ででも「君たちは今まで暗記と受験テクニックで乗り切ってきたが、これから大切になるのは理解と思考(場合によっては批判的思考)だ」と言われ続けることが可能になる。これは空疎な事態だが、実際に起こっていることでもある。こういったときに、その知識だの暗記だの思考だのといった語、そしてその語の指示対象を冷めた目で再確認することができるようになる。教育をする側・喧伝する側にもまして、まず受ける側がそういう再確認の方法をもつことができるのである。

半側評価語という概念はそのために、まだしばらくは役に立つことになるだろう。それにこの種の語からは誰も免れることはできないのである。