文自体の理解についてまず分類

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文の理解について考えるときに、文自体だけを単独で考える流儀と、「文+状況」の全体を考える流儀とが在る。今回は前者をやっておく。

文の理解可能性に関して「同定可能性」と、同定を前提にした「理解可能性」とを両方考慮して分類してみる。

この場合の同定とは、音声言語の場合はまずとにかく聞き取れること、そしてたとえば単語の切れ目や同音異義語が聞き取れることのレベルまでを指す。たとえば「にわにわにわにわとりがいる」という音声言語に対して「庭には二羽ニワトリが居る。」というふうに即時に文字化することは同定と呼ぶことにする。あるいは「にわにわたなべがいる」という音声言語に対して「庭に渡辺が居る。」なのか「庭には田辺が居る。」なのかを状況に応じて正確に即時に文字化できることは同定と呼ぶことにする。ただしここでは文の外側に在る状況のことは考慮しないことにしているので、先行する文のみを考慮してどちらかに決めることを同定と見なす。なお、音声言語には句読点がいっさい無いので、句読点も含めて文字化できることも同定と本来見なしたいところである。しかしこの操作は文法構造の理解と分かちがたくつながっているので、同定を前提にしたより高度な理解の側に、この考察では入れておくことにする。

文字言語(活字)の場合は、発音を知らない漢字が無いことは同定できていることの一部であることにしておく。また、漢字や片仮名で表記可能な要素がひらがなで書かれている場合、それを可能な表記に置き換えることができる状態であることも同定と見なす。たとえば、「人気がない。」という文を「にんきがない」なのかそれとも「ひとけがない」なのかを、状況・文脈に応じて区別して正確に発音できることは同定と見なす。ただしここでは文の外側にある状況のことは考慮しないことにしているので、先行する文のみを考慮してどちらかに決めることを同定と見なす。或いは「障がい者」と書かれた文字を「しょうがいしゃ」と発音できること、および「障碍者」等の表記が可能であるとわかること、の二つは同定と見なす。つまり「“が”が助詞ではない」ことが読む速度で瞬時にわかる、および「“障害者”という表記を回避しようとしている表記である」とわかる、ということである。

同定できたうえで、さらに文自体が理解できた、という状況をこの段階で考えることができる。ただ、理解というのは0か1かというものではなく、浅い理解も在れば深い理解も在るというほうが実情にかなっているだろう。よってここでは「特に理解できないことは無い」程度の状態を「理解した」と呼ぶことにしておく。文を取り囲む状況についてはどのみち考慮していないのだから、文自体の理解といってもある程度限度の在るものにならざるをえない。それでも考えておくに値する事柄はいくつか在る。以下それを示す。

特に重要なのは、「文自体の正しさ」を理解できる、という理解である。外部の事実に照らした文の真偽ではなく、文自体(の発音や表記も含めたもの)の正誤である。ただし、文が誤っている場合には注意が必要だ。誤った文が理解できるというのは「どこをどう直せば正しくなるか」が理解できる場合に、ほぼ限られるからだ。というのも、どこをどう直せばいいのかが即時にわからないような文は、そもそも同定すら困難だからだ。少なくとも、それは実効的な言語たりえない。そのような、同定できないものに対して理解可能性を論じることは意義が無い。

「どこをどう直せば正しくなるのか」が理解できる文というのは、したがってやや些細な揚げ足取りじみた態度によって見いだされやすい。「詳しいことまでいちいちあげつらう。」→「細かいことまでいちいちあげつらう。」といった誤文修正を見るとそれがわかると思う。つまり、このくらいに「些細な」誤りでないと「どこをどう直せば正しくなるのか」が理解できる文になりにくいのだ。たとえば「からすがにこきにとまっているよ」を「二個→二羽」というふうに修正するのは、漢字を交えて書かれた文字言語だと容易だ。しかし音声言語だと困難だと思う。なぜなら「にこ」という音声が音の数が少なく、また「に」が助詞なのかと一瞬でも迷わせてそのため前後の語に紛れやすいので、これを「二個」と聞き取れるためにはしかるべき先行文が無いと困難であるからだ。そして、「二羽」を「二個」と誤るというのは、その事情を覆せるほどに「よく在る誤り」ではない。誤りとしては少し大胆すぎるものなのだ。誤っており誤りが理解できる文というのは、だから文字言語ならいろいろ成立するだろうが、音声言語だとかなり限られる。音声言語の場合は、誤っている文の多くは同定できず、したがって即時の理解もできない文であるとみて良い。文字には活字が在るが、他方、音声にはそれに匹敵する存在が(せいぜいアナウンサー・声優の発声・発音くらいしか)無いのだから、そうなる。

「文自体のわかりやすさ」を理解できる、という理解もまた在る。たとえば文意は理解できないが、その文が理解困難な文であるということは理解できる、という事態が想定可能である。ただ概して言えば、「文自体がわかりにくいということがわかる」という場合には、文意が理解できないだけでなく、その文が正誤面で正しいかどうかも理解できない、ということになることが多いと思う。なのでこの場合は、その文が日本語であることは理解できまた理解しにくい文であることも理解できるがしかしそれ以外は大してわからない、ということになる。これはわりとありふれた日常の風景かも知れない。その一方で、文意も理解でき、かつその文がわかりやすい文だということもまた理解できる、ということはあまり無い。というか、その場合「理解という脳内・内面での出来事」を経由しないことにおそらくなる。つまりそのわかりやすさは「無意識に受け取る」ものとなる。なぜなら、理解できる文に対して「わかりやすい文であることも理解できる」というような認識をするのは、文そのものに対して専門的態度をとっていないとなかなかできないからである。要するに私たちの多くは、「文のわかりにくさ」には鋭敏であっても「文のわかりやすさ」にはあまり鋭敏でないものなのだ。

その一部として「語句や言い回しの頻度や新旧がわかる」という理解もある。たとえば「この語句は使用頻度の低い語句だ」とか「この言い回しは古い言い方だ」「この言い回しは若者言葉だ」ということが理解できることが、ままある。これは要するに、とりわけ際立ったものに対してだけ注意が働く、といったタイプの事態ではないかと思う。語句や言い回しの使用頻度や新旧などを通常はあまり意識しないが、際立った場合には意識することがある、というタイプの事柄だろう。

上記の内容の一部は、筆者の書いた「見逃されてきた日本語の「聴解力」、特に「音声同定力」の背景に在る問題」と大いに関連している。併せて参照すると参考になると思う。