テレビ作文・マンガ作文のポイント「複文」

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注釈

21世紀の初頭ごろに首都圏の一部で猖獗をきわめた「マンガ作文」は、「通常ならばやらないべきである」教育手法だと筆者は見なしている。だがもしやるならやるで、その異常なまでの難しさを、せめて指導者は適切に理解しているべきである。その難しさの理解がまったく足りないと感じたので、問題提起的に書いた文章だ。問題提起したポイントは三つ有る。すなわち「単に発語内行為の記述をすればいい、というものではなさそうだ」という点と、「引用節の文を構築できる生徒にしかやらせてはいけない」という点と、「主語などという概念を保持したままの指導者が教えると、悪文を産み出す生徒を輩出してしまう危惧が有る」という点と、である。

本文

マンガ作文は通常「要約力」育成の一環というか導入として行なわれる、ということになっている。しかし、説明的・論証的文章の要約や物語文のあらすじというものを抽出する「能力」というのは、いわば画力で言えば「デフォルメ」のような技能である。画力ではその段階の前に「デッサン」が先行することは言うまでもない。きちんとしたデッサン力があってこそのデフォルメ力であることは、赤塚御大も述べておられる。なので、そこから類推すればマンガ作文もまた、「デフォルメ」の前にまず「デッサン」なのである。少なくとも生徒に教える側にはその能力を要求したい。そういうわけで、まずは自分がマンガ作文の「デッサン」を、ただしせりふ部分周辺に限って行なっているわけだ。マンガ作文の指導者はおそらく「○○と言った、だけではダメです。間接話法でちゃんと書きなさい」などといって小学三・四年の子供を作文嫌いにさせているに相違ないので、まずその指導者が「○○と言った」の箇所をあますところなくすべて「デッサン」できることが求められるのだ。

ところでやってみるとわかるが、「○○と言った」を単に発語内行為によって記述していくだけだと、相当に不足感がある。たとえば「非難した」とか「訴求した」などのように記述することは可能であっても、そのせりふの○○という箇所があまり生かされていないように思えることがある。つまり「Aさんは○○と言った」という箇所を単に発語内行為によって記述するのみならず、可能なら「Aさんは××とは言わずに○○と言った」のような内容を多少なりとも反映するようにした方が、不足感は少ない。たとえば、同じ「非難」であっても「馬鹿野郎」と述べて非難するのと「どうして君はいつもそういうことするかなあ」といって非難するのとでは、与える記述は違えてみたいように感じてくる。つまり「Aさんは(どうして君はいつもそういうことするかなあ、と言う代わりに)馬鹿野郎と言った」というものを、発語内行為に書き換える、というふうにしたくなるわけだ。早い話、せりふが変われば同じ発語内行為であっても違うように書きたくなるわけだ。

そうすると、筆者の考える「教師用」マンガ作文・テレビ作文では、もともとの与えられた情報よりも、より詳しくくどい「敷衍」文を作成することになり、それは文法的には複文と呼ばれるタイプのものに、しばしばなる。つまり一文のなかに、述語が複数出現するような文になる。そのなかでも、発話に関しては補足節(特に引用説)と分類されるタイプのものが中心になろう。いずれにせよ、マンガ作文のせりふの箇所を生徒にやらせようという教師は、複文が使えるような生徒かどうかをきちんと見極める必要だけはある。

次のタイプの複文は構築するのはたぶん比較的易しい。

バッグシャドウは「はっはっは 何っ」と言った。↓

レインボーラインもまた汽笛とともに空中に舞い上がったため、まさかそこまで敵が出来るとは思っていなかったバッグシャドウは驚きの声を上げた。

次のタイプの複文を構築するのは、技術というか文法的な観点がかなり必要になる。そして公教育がその観点を提供しえているとは到底思えない。

バッグシャドウは「レインボーラインめ 弾き飛ばしてくれるっ」と言った。↓

自分の操縦する列車によってレインボーラインを弾き飛ばしてやるという敵愾心をむき出しにした宣告を、バッグシャドウは誰にともなくわめきちらした。

ちなみにこの箇所は、筆者の作文例に相当の無理があると思える読者も多かろう。その原因の一つは、このせりふが、「登場人物が登場人物に聞かせる」ためのせりふではなく、「登場人物が視聴者に聞かせる」ためのせりふ、フィクションの発話の典型のような箇所だからである。それを、素知らぬ顔をしてリアルの会話のように扱って記述すると、こうなりうる、という一つの記述例を与えてみたわけだ。もちろん読者の違和感の多くは、「宣告をわめきちらす」という語の連接に主に向けられていると思う。文だけ抜き出して観察すれば確かにそうだ。もっと適切なコロケーションはいろいろあるはずだ。だが、この場面のもつ独特の「無理」「虚構性」を表現してみたかったので、あえて「宣告をわめきちらす」という言い方を採用してみたかったのである。場面を考慮したうえでの、まあ独自表現である。

なおこの箇所は「○○してくれる」という文語調の表現もあるので、その点も当然注意が必要になる。「かわいがってやるぜ」が「かわいがる」ときと「いたぶる」ときの両方に使えるがしかし言語学習の当初は「かわいがるの意味のかわいがるという発話」しか知らないのと同様、「○○してくれる」というのも「善意で貢献する」ときと「悪意で被害を与える」ときとに用いられるが、しかし言語学習の当初である子供は「善意で貢献する」ほうの用法しか知らない、わけである。なので、その「善意」のほうではないことを、子供が知らなければ伝える必要がある。

その複文の件とも関係するが、この手の作文に「主語-述語」という概念対は本当に役立たない。むしろ害になりうる。筆者は、ライティングに関しては酒井聡樹氏や本多勝一氏の路線を支持しており、それは三上文法を意識したものである。英文法に影響された多くの人が「主語」と呼ぶものは、原沢伊都夫氏の用語説明だと「主格」に該当するものであり、要するに述語が「必要」とする必須成分の一つに過ぎない。要するに他の格よりも主格だけを特権的に重視する謂われはまったく無い。だが主格だけを特権的に重視する人だとえてして次のような文章を書いてしまいがちである。その文は筆者の感覚では下のように書いたほうが良い。

レインボーラインもまた汽笛とともに空中に舞い上がったため、バッグシャドウはまさかそこまで敵が出来るとは思っていなくて驚きの声を上げた。↓

レインボーラインもまた汽笛とともに空中に舞い上がったため、まさかそこまで敵が出来るとは思っていなかったバッグシャドウは驚きの声を上げた。

レインボーラインから降りるとき特急二号が思い切り転んだ。特急三号が事前に足下に気をつけるように言っておいたにもかかわらずだったので、二号に少し呆れてみせた。↓

レインボーラインから降りるとき特急二号が思い切り転んだ。事前に足下に気をつけるように特急三号が言っておいたにもかかわらずだったので、三号は二号に少し呆れてみせた。

しかし酒井聡樹氏が『これからレポート・卒論を書く若者のために』というタイトルそれ自体は内容を裏切っている著書のなかで述べているように、文法的な修飾関係のみを考慮して語順を決めるのがいつでも正しいわけでは、まったく無い。文の「主題」を文頭に位置させるというルールのほうが、可読性を考慮した修飾関係の語順ルールより、優先する。あるいは少なくともそういう考え方もあって良い。なので、先に上に提示した書き直す前のほうの文の方が良いという場合も当然ありうる。要するにマンガ作文なりテレビ作文で「間接話法で書きましょう」「○○と言ったという書き方は止めましょう」などと生徒に教える教師であるならば、修飾関係を優先させた書き方と主題文頭型の書き方と両方繰出せるようでなくては話にならない。だからつまり、この作文を教える人が「主語-述語」などという概念対を保持したままでいることなどありえない、わけだ。「主語-述語」などは数ある概念対の一つに過ぎず、しかもそれは日本語にはおそらく不適当だ。