マンガ作文・テレビ作文における間接的言語行為のキモ

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追記:この文章より推奨するのは、新たに書いた「「慣用表現」の日本語力:コボちゃん作文の「指導者」に必要な認識」のほうである。ただ、こちらの文章もまだ一応残してはおく。(2020/02/16)

「俺の顔に泥を塗ってくれてありがとうよ」というBさんの発話を、多くの人はおそらく「AさんがBさんという人物に恥をかかせた件に関して、怒ったBさんがAさんに対して恫喝してみせた」というふうに理解する。しかしもちろんこれは社会文化的な学習によるものであって、その学習を経ていないがしかしある程度の日本語力を習得している子供の場合、そうは受け取らないしそうは受け取れない。

まずこの発話の中に使われている「顔に泥を塗る」という慣用表現の理解がどうか、という問題がある。これは「相手に恥をかかせる」とか「相手の名誉を損なう」といった意味合いで通常使われる。しかし、社会文化的な学習途上にありながら、ある程度は日本語力を習得している子供の場合、「顔に泥を塗って遊んだの?」とか解釈したりするかもしれない。まずここが一点目。

この一点目がクリアされていないと、次の二点目のクリアは不可能困難であろう。それは「俺の顔に泥を塗ってくれてありがとうよ」という発話を、「恫喝」とか「怒りの表明」とか「脅迫」などと受け取る、という理解力である。というのは、社会文化的な学習途上にある子供はこの発話を「感謝」と受け取るかもしれないからだ。というか、結構な割合でそういう「子供」はたぶんいる。それに対して、日本語を正しく理解しているというのは、「この文は感謝を表明するような形をとってその実恫喝するというように、ストレートな形をとらない婉曲表現によって、自分の強い感情を相手に効果的に伝える、というタイプの言語行為なのだ」といったものになるだろう。

ところが、一点目がクリアされていないのに、二点目だけクリアする、ということも、ある意味では不可能ではないと言いうる。たとえばある種の子供は「Bさんの顔にAさんが泥をうっかり掛けて汚してしまったので、Bさんは怒ってAさんに対して恫喝した」というふうに理解するかも知れない。慣用句の理解の仕方は間違っているが、相手の言語行為を感謝ではなく恫喝であると理解している点では正しい。そういうパターンだ。あるいはほんとうに間違って相手の顔に泥をかけてしまった場合にも、同じような発話が相手から飛び出してくることが絶対無いとは言い切れない、ということも考慮した方が良い。

「顔に泥を塗る」にしろ「○○してくれてありがとうよ」も、相当に自動化した慣用表現ではある。がしかし、これらの表現が必ず絶対100%慣用表現として使われるとは限らない。本当に顔に泥を塗った場合や本当に感謝の意を伝えるときにも、こうした表現を絶対に使わないとは限らない。確かに、そう使ったら紛らわしいから、より慎重な表現を使うのが常識的な配慮ではあるが、常にそうしなければいけないとは限らない。そういうことも考慮した方が良い。

土屋俊氏の「間接的言語行為という偽問題」、『なぜ言語があるのか 土屋俊言語哲学コレクション4』(くろしお出版、2009)というやや難解な論文を読みながらなんとは無しに思ったことを、書いてみたのが以上である。言語行為の理解という問題は、慣用句や比喩やオノマトペの理解と無関係ではないという直感を筆者はもっている。

付記:上記論文での「間接的言語行為というのは偽問題である」という主張を「日本語を母語として現在習得しつつある子供」に安易に適用してはならない。このことは言うまでも無いので特に書かなかったが、当然のことである。単に所謂「語用障害」の子供が明らかに実在するというだけの理由ではない。子供が母語をどのようにして習得するかのメカニズム等の多くが未だに不明である状況では、危険な見方だからである。土屋論文の主張に従うならば「俺の顔に泥を塗ってくれてありがとうよ」は「端的に恫喝の表現であって、これを感謝の表現だと受け取る見方自体が理屈っぽい哲学者の机上の空論である」となる可能性もあると思うが、そうではないことは現実的に明らかである、日本語を母語として習得しつつある子供は、特段の「医学的な障碍」が無い子供であっても、これを「感謝の表現」として一度は受け取る可能性は充分にあるのである。

この点に関しては言説のバランスが難しい、と筆者は思う。子供の言語習得に対して影響力の強いのは、医学的だったり心理学的・言語学的見方のほうであり、そういう言説は流通しやすく人の口にものぼりやすい。だから「間接的言語行為というのは偽問題である」などという言説が流通することは、全くありえない。だから心配することは無い、と言うふうにも言えるだろう。土屋俊のような言語哲学的な主張は、「流通する言説」としてはまったく弱い立場なのだ。他方、コボちゃん作文の発明者工藤順一のような言語行為や日常会話に対して「何にも考えていない単なる馬鹿」が、土屋の論文だけを偶然読んだ場合に、著しい誤解をすることもありうる。そのような「単なる馬鹿」がまさに無考えのゆえに、自身の「発明」した教育技法とやらを普及させようとすることもありうる。そこにおいて「間接的言語行為など無いのだから、それを理解することには知的な困難など何も無い」などと決めてかかることにもなる。そのようなレアケースがどうやら現実化してしまった現在では、やはり「間接的言語行為というのは偽問題である、という主張はちょっと待ってほしい」とカウンターとして強めに主張しておく必要もあるだろう。

もう一点付記する。流通する言説のほうになじみのある者にとっては、「間接的言語行為という問題は偽問題である、なんて、そんなわけないじゃん。だって発達障碍だとかそれに似たような症状の人(年齢問わず)がそれを間接的にしか理解できないことは常識だからだ」というふうに考えることはたやすい。その程度に「常識」化していることは良いことだと思う。だが、その状態にも落とし穴がある。それは「健常者ならやはり間接的言語行為などは偽問題に過ぎないのではないか」というふうに自然に思いこんでしまいやすいという点だ。「間接的言語行為をそれこそ間接的にしか理解できない障碍のある人」と「間接的言語行為と呼ばれがちなものを直接的に理解できる健常者」というふうに捉えてしまうのだ。だが、少なくとも「健常者である子供」に関してはこれは成り立つと決めてかかるのは、いかにも配慮が足りない。「俺の顔に泥を塗ってくれてありがとうよ」という言語行為を、第一印象では「感謝」と「直接的に」認識してしまう子供はやはり居る可能性がある、と思うべきなのだ。決して発達障碍やそれに近いような人だけの問題ではない。ここには少なくとも「慣習化した表現についての知識」という問題があり、その「知識」を欠いていれば健常者だろうがなんだろうが、「直接的」にはそのタイプの言語行為は理解できないかもしれない、と態度を保留するべきなのだ。

もちろん「その表現がどの程度慣習化しているか」自体も、100か0かみたいな截然と二分されるようなものでは全く無く、グラデーションを伴った0から100まで分布しているといったあり方をしていることだろう。また「○○してくれてありがとう」のように、「文脈」によって「正解」は真っ二つに分かれる、というあり方自体が「慣習化度」のなかに含まれているような表現もあるだろう。「感謝」になるか、それとも「恫喝」「憎悪」などの表明になるかは文脈次第で判断しなくてはならない、ということまでもが慣習的に決まっている、というような表現ということだ。この表現の場合、確かに「感謝」のほうが「文字通りの意味」であり、「恫喝」「憎悪表明」のほうが「慣習的表現としての意味」と言えるかもしれない。しかし、けっこうな確率で、「文字通りのほうではなく慣習的表現のほうになる」とあらかじめ決まっているのなら、その程度に固定化した表現ならば、そのような決まり方自体がいわば「慣習」のなかに書き込まれている、と見なすほうが良いかも知れない。

なお、「ありがとう」が「文字通り」に「感謝」を意味するという点に対して違和感をもつ人もいるだろう。文字通りなら「めったにないことだ」を意味するだろう、というわけだ。だがこの種の問題には、それこそ発達的な事実を基に、返答できると思う。私たちは文字通りに「ありがとう」が「感謝」を意味するということをまずは先に学習して、それから何年も経ってようやく「有り難い」→「滅多にないことだ」を学習するのである。その例外はほとんど居ないはずだ。まずはそのように返答しておく。