「因果関係」という語について、出口式教材を観察してみる

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はじめに

出口汪という国語教師がいることは私は知っていたが、しかしまさかここまで完成された形で「要訂正」の内容だったとは知らなかった。こういう内容をもう十何年以上或いは何十年も教え続けていたのも初めて知った。私がここでいつも言うことだが、国語教員になる資格を得るためには、近代日本文学を専攻したうえで、古典日本文学・国語学(古文)・中国文学(漢文)などもできないといけない、文学作品だってたくさん読まないといけない、つまり、普通の人にはこれで手いっぱいなはずである…のが戦後70年以上の期間は通例だった(2020年代の新カリキュラムではどうなっているかは私は知らない)。であるから、国語教員の開発したカリキュラムは、またとりわけ「論理的」という語を連発する国語教員の開発したカリキュラムは、論理学・英米系哲学・倫理学や人間の行為に関する分析・考察を行なう社会学などの諸学問について無理解・無知である、という形をとる。つまりその方向に進学したいという大学受験生に、大いなる無駄な回り道をさせることになる。それにしても、そういった学問をかつて学んだ人は、自分の子供がこんな教材で教わっていることに腹が立たないのだろうか。或いは、今大学で教えている大学教員は、自分の教え子である学生がこのカリキュラムを学んできたかも知れないことに、うすら寒い思いをしないのだろうか。不思議である。

新科目「論理国語」がどうなっているか大変に心配であったので、私は出口の小学生レベルの「論理国語」教材を購入した。それだけでもまず明らかにおかしい点に気づいた。そして、ネット上で見かけた「論理エンジン」でも、非常におかしいページを見つけたので、これはただならない状況である、と私は焦慮にかられた。それで2023年7月、3年5か月ぶりにJR山手線に乗って、都内の大型書店に行って、出口の教材を少しだけ購入してきた。

いきなり全部を一挙に批判するのには準備不足なので、取り急ぎ、問題提起という形をとりたい。ターゲットは「因果関係」という語なのだが、そのターゲットに関して準備不足なのだ。なので、その門前までたどり着き、問題提起にまで持ち込むのが今回のこのページの到達目標となる。

人間諸学の概念セット

ここでまず先に、私が使っている「人間諸学の概念セット」を紹介する。次の表を眺めていただきたい。

人間諸学の概念セット
大分類 Aセット Bセット
行為 行動・反応
理由(自身がコントロール可能) 原因・要因(自身がコントロール不能)
規則 法則
(理由-帰結関係) 因果関係

これは人文書などを読むときに私が勝手に使っている概念セットである。学問を分類するとき、主にAセットである学問とBセットである学問とが在る、と分類可能だというわけだ。と同時に哲学はこの両者を比較する営為もまた行なうことが在る。とは言え、この分類がそこまで徹底的であり、絶対的なものかというとそうではない。AセットとBセットとが一人の研究者のなかで混在している場合も在るし、同じジャンルのなかでも、Aセット中心の研究者もいれば、Bセット中心の研究者もいることも在る。で、「規則」と「法則」の区別に関しては、野本・山田編『言語哲学を学ぶ人のために』(2002,世界思想社)所収の、第1部第4章「規則のパラドクス」(担当:野矢茂樹)を参照すると良いと思う。

特にこの点で注意すべきは「理由」と「原因」である。学術的な用法や英語での用法(reasonとcause)に関しては一ノ瀬正樹(『原因と理由の迷宮(2006,勁草書房』)にお任せするとして、日本語の日常的な用法には学術的な用法と真逆になりかねない事情が在ると思うのだ。よく言われる論点も含むが、以下その事情を説明する。

学術的な分類のポイントは「人間の自由」というものだと思う。かつて「サイト但書」にも書いたように、当事者がコントロール可能なものなら「理由」であり、当事者がコントロール不可能なものなら「原因」というわけだ。ところがその一方でこれと真向から対立するような日常的な語用規則というものも成立しているように思う。それはまず、「原因」というのは「好ましくないもの」であるという使用規則である。「彼が東大に合格した原因は素直さだろう」と言えば、まるで彼が東大に合格したことが好ましくないように聞こえる。同時に「素直さ」という性質も否定的に捉えられているように聞こえる。その一方で、「理由」というのは規範的に好ましくないものであってはならない、という使用規則も成立している場合が在るように思う。たとえば遅刻して理由を述べろと言われたときに「電車が人身事故で遅れたので遅刻しました」と言うと理由として通用しやすいのに対して、「ゲームセンターに寄っていました」と言うと「そんなのは理由にならない」という言い方で却下されるように思える。電車が遅れたのはコントロール不可能な側だから学術的には「原因」のほうが良いように思えるが、日常的にはむしろ「理由」と表現されることが多い。そしてそれに対して、ゲームセンターに寄っていたのはコントロール可能な側だから学術的には「理由」のほうが良いように思えるが、しかし日常的には「理由」と表現すると却下され「あいつが遅刻した原因はゲームセンターに寄り道したことである」と第三者には表現されかねない、というわけだ。

上掲のような「人間諸学の概念セット」を一通り使っているような学術的な人(?)であっても、こと「理由」と「原因」の区別となると、状況や相手をよく見て、巧妙・適切に使い分けるというふうになっていて、区別の基準を首尾一貫させることが難しいと思う。少なくとも私はそうだ。「原因」は二次的評価語になりがちなので「要因」という語に統一しようかと思ったことも在るが、しかし「要因」だといくつも候補が在る中からどれかを選んだり探索したりしているように思えてしまう。自然な形で「要因」は使うことがしづらいと私は感じる。

その事情の反映だと思うが、「原因」の場合だと、「原因と結果の関係」を指すときには「因果関係」という語が確立されているのに対して、「理由」の場合だと「理由-帰結関係」などといったひどく不器用な語を「作る」しかないように思える。要するにこの欄は空欄であるような状況にかなり近い。その状況が出口汪という、「要訂正であるまま完成されてしまった内容」を教える教師を作り上げてしまった、とそんなふうに思える。

もう一つ「行為」という語についても補足しておく。人文書になじみの在る自分のような読者だとこの語は価値中立的に聞こえるが、日常的にはそうとも言い切れないように思うのだ。「行動」のほうが中立的に聞こえるのに対して、「行為」は顕彰する場合か、反対に、非難する場合が中心を占めているように思える。この点も少し重要かもしれないので、意識しておこう。

では出口の著作をみてみよう。実にこう、何と言うか、一貫しているのだ。

見出しに使われる「因果関係」

まず小学校一年生向けの教材から見てみよう。実際に「小学校一年生」でなくても、レベル的にそのレベルの学習者であれば使って可い、という位置づけだ。さて、ここで観察される特徴は二つ在る。一つは「見出し」に使われるということで、もう一つは因果関係という語の説明が無いことである。つまり、定義など抜きにしていきなり使われるのだ。

『はじめての論理国語 小1レベル』(2016,水王舎)には、保護者向けの解説文のなかで「因果関係」という語が頻繁に使用されている。が、それとは別に、見出しに使われている箇所も在る。p117-116という見開きのなかに、「実践!論理トーク3「因果関係」」というコーナーが在り、次のような「会話」が例示されている。登場人物の名前を補ったのは引用者である。ただし登場人物の名前がわからないものが在るので、そこは「女性」としておく。

女性
マーロンは きょう こうえんに いきたいですか?
マーロン
はい。ぼくは こうえんに いきたいな。←なぜなら ジャングルジムの いちばん 上まで のぼってみたいからだよ。

という会話が在り、その下に「おうちのかたへ」と題された文章が配置されている。その文章の最初の三段落を引用する。p116。

論理トークの中で最も強力なのが、「因果関係」の質問です。

理由を問う質問を繰り返すたびに、「何となく」考える癖をなくします。

低学年のうちは答える内容の良し悪しよりも、当意即妙でよいので、素早く答えさせることを重視してください。理由を答えることに慣れさせることが目的だからです。

このコーナーは「実践!論理トーク3「因果関係」」と題されているが、参考までに1と2は何かというと、「実践!論理トーク1「イコールの関係」」「実践!論理トーク2「対立関係」」というふうになっており、「○○関係」でタイトルが統一されていることがわかる。「因果関係」という語はタイトル・見出しになりやすい。まずこの点を押さえておきたい。そしてそれでいながら、「因果関係とは…である」といった定義説明はいっさい無い。

私はこれを読んで脱力してしまったのだが、これで脱力しているようだと、この小一レベルで脱落してしまう。それに、この例はまだましなほうである。というのも、第三者が「彼は公園に行きたがっている。なぜなら、彼はジャングルジムの一番上までのぼってみたいからだ。」と述べるのなら、「因果関係」が成立していると言いうるようにも思えるからだ。「ジャングルジムにのぼってみたい」というのが、「欲求」さらには「感情」や「衝動」のように聞こえるような設定になれば、それだけますます「因果関係」に近づいてくるだろう。また或いは、次のように把握するならば、「因果関係」が成立していると言いうることも見逃せないだろう。

つまり、マーロンが公園に行きたいことの「原因」ではなくて、マーロンが公園に行きたいと返答したことの「原因」ならば、さほどおかしくないわけだ。そのおかしくないと感じる感じ方には、原因と結果とのあいだに「時間差」が在ることがおそらく関係している。

要するに、この箇所で私が第一印象で脱力したのは、「因果関係」と「理由」や「なぜなら」という語が同列に挙げられていることに対してであったようだ。

この教材には、「因果関係」と「理由」とが並列な関係として使われている箇所も在る。保護者向けのうすい冊子のp53には次のように在る。

因果関係・理由を考える問題で、複数の正解の可能性があります。

…とこうなっているので、「因果関係」と「理由」とが同格・並列であり、かつ、同義・同用法ではないというふうに捉えていることが推察できる。もし完全に置き換え可能で同義・同用法であるならば、わざわざ「因果関係・理由」というふうに書く必要が無いからだ。

接続語の分類項として使われる「因果」「因果関係」

「出口にとって“因果関係”や“因果”という語が何か」と想像してみた場合、「語の分類項の一種」であるようにも思える。『出口汪の日本語論理トレーニング 小学二年 応用編: 全学力を伸ばす基本ソフト 論理エンジンJr.』(2013,小学館)の「答えとくわしい考え方」という小冊子のp27には次のような形で「因果関係」の語が使用されている。なお、丸数字は機種依存文字になってしまうので、「()」で代替する。

(2)二文の関係は逆接なので、逆接の接続助詞「が」でつなぎます。

(3)「学校を休む」理由が「かぜをひいてしまいました」なので、因果関係の「ので」「から」「ため」などでつなぎます。

とこのように在り、かぜをひいてしまったので、学校を休むことにしました。という解答例が書かれている。この関係が因果関係であると判定することは特に変ではない。「私はかぜをひいてしまったので、学校を休むことにしました。」だと「因果関係というよりは理由-帰結関係」のほうが良いかもと思えるが、「彼はかぜをひいてしまったので、学校を休むことにしました。」なら「因果関係」と受け取っても違和感は少ないと思う。ここで重要なのは、「因果関係の接続語」とたとえば「逆接の接続助詞」などが同格・並列という扱いになっていることだと思う。

「因果関係」が「接続語の分類のなかの一項目」である、という假説は、大学受験生向けの教材のなかにも登場することでより確かなものとなる。『出口汪のメキメキ力がつく現代文 ライブ1―論理の構造―』(2004,小学館)の第二講、p99-100から引用する。

いままで、筆者が正月早々寝込んでしまった体験、エピソード(A')で、いくら読んでもどこで一般化するのか分からなかった。そして、「だから、右の状態は」となる。「だから」という接続語はいやというほど出ます。「だから」とか「したがって」は、「因果の接続語」といいます。これは前が理由になっている。あることを述べて、そのことを理由に「だから」「したがって」こうなりますよと、因果関係を示す。この「だから」「したがって」は非常に大事です。なぜかといえば「理由を述べよ」という設問が現代文には実に多いからです。

この解説あたりで私の忍耐力の限界を越えてしまった感が在る。「因果関係」という語を定義抜きで使うのなら、せめて典型的な用法から先に見せてほしい。ところが出口という人物が行なっているのは、その反対であり、「理由-帰結関係」のようなものを次々と「因果関係」の例として挙げてくるのである。ちなみにこの箇所で挙がっているのは、入試問題の正解をバラしてしまうことになるが、次のような文である(作者は河上徹太郎)。ここで問題となっている、「因果関係を示す」という「だから」には引用者が強調を付加する。

だから私はかぜ熱がそれの代用品になるかどうか知らぬ。しかしそれは別にしても、熱の忘我の中にはたしかに酔いがある。それが私を解放し、陶酔させ、一種の無何有境へ連れこんで遊ばせてくれる。これほど手近な、安価な、間違いのない、(効果の上でも危険性の上でも)麻薬遊びがあろうか?人はそれによって疎外・蒸発、自由自在だし、復帰は百パーセント確実である。しかもその肉体は、宇宙飛行士その他特殊技能者の如く全身洗い浄められ、生れ変わってすがすがしく以前の戦列につけるのである。これほど健康な状態があろうか。 だから右の状態は、正しくレジャーというものの理想的な状態なのである。(後略)

因果関係の典型には全然見えない。たとえば原因と結果とのあいだに時間の経過が在るように見えない。先述した小二向け教材に在ったかぜをひいてしまったので、学校を休むことにしました。のほうがよほどマシであると思う。

「因果関係」と「主語」

インターネット上の「論理エンジン」でもこの調子である。一瞥を与えておこう。因果関係|論理JPの解説はこのようである。

筆者はAという主張をしたあと、それを前提に、Bという結論を導き出すことがある。

A → B

この場合、AがBの理由(根拠)となる。

このA→Bを「因果関係」という。(後略)

因果関係|論理JP
因果関係|論理JP

さて、ここで他のページも参照してみよう。主語と述語|論理JPの解説はこのようである。

文章を論理的に読むコツは、漠然と読まないこと。これは英語や古文でも同じです。そのためには、目のつけどころを大切にすることを意識し、一文を読むときは、その要点となる「主語」と「述語」に着目することが大切なのです。

主語と述語|論理JP
主語と述語|論理JP

さて、ここで振り返ってみよう。「因果関係|論理JP」で述べられていた一文、このA→Bを「因果関係」という。の「いう」の「主語」は何だろうか。出口はこの文の「主語」として何を想定していたのだろうか。私がその「主語」に入らないことは確かだ。だがそれにとどまらず、この「主語」に含まれない人々は存外たくさん居るように思う。

出口汪や福嶋隆史という国語教材の有名著者が「因果関係」と「理由-帰結関係」とを区別しないのは、それらが言語表現としては区別されないことが多いからだろう。その際、「この二つを区別するべきだ」という読者層のことは全く念頭に無い。たとえば「理由」と「原因」とは日常場面ですらも一定の「区別」が在るのだから、人文書を全く読まない人だって、彼らの「因果関係」の語を用いた解説を読んで、混乱こそすれ、スッキリすることは無いと私は想像する。だが、そういう層のことも念頭に置かれていない。だから紙の教材では定義説明すら無かったり、ネット上の定義のように「主語の無い」定義しかできなかったりする。そのような状態であることが観察された。

「理由-帰結関係」を「因果関係」と呼ぶのは、出口汪や福嶋隆史だけではない。彼らが登場する以前から、たとえば櫻本明美『説明的表現の授業:考えて書く力を育てる』(1995,明治図書)といった教育関係書のなかでも「理由づけ(因果関係)」などといった言い方がされているらしい。この著書は私は入手も閲覧もできなかったので、はっきりしたことはわからない。言えそうなのは、とにかく「国語教員有資格者」が彼らの云う「論理的な」領域に手を出すと、いろいろと問題の在る叙述や授業をしてしまい、生徒が混乱する、ということだ。哲学や社会学やその他の人間に関する諸学を専攻しようという生徒のことは念頭に無い。彼らは全く異なった種類の学歴を取得して、そのような「論理的な」国語を教えるという立場になっており、その他の各種人文書を読む人のことは視界から遮られているのだろう。「論理国語」というふうに科目として従来の国語科の中心であった「文学」などから引き離したところで、教えているほうの教師の学問歴が同じならば、何の解決にもならない、というかかえって悪化する。それに国語教師の多くが論理学を嫌っていることもだんだんわかってきた。何とかならないのか。